自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【304冊目】F・W・クロフツ「クロイドン発12時30分」

クロイドン発12時30分 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

クロイドン発12時30分 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

犯人の視点から描かれた、いわゆる「倒叙ミステリ」の古典的作品。経営難に陥った工場経営者のチャールズが、遺産目当てにおじのアンドルーの殺害を決意、実行してから、その罪が確定するまでを追っている。

フレンチ警部」シリーズのひとつということらしいが、同シリーズが未読でも全然問題ないと思われる(少なくとも私はまったく違和感を感じなかった)。その理由のひとつはおそらく、そもそも探偵役のフレンチ警部があまり登場しない点にあるのではなかろうか。「倒叙型」ということで、「コロンボ」のように探偵役が執拗に犯人を揺さぶったり、お互いが心理戦を繰り広げるという展開を予想していたのだが(そういう「駆け引き」系の倒叙ミステリも大好きだが)、本書の場合、犯人チャールズの行動とフレンチ警部の捜査はほとんど交わることなく、チャールズにしてみれば、いきなり逮捕されて法廷で「真相」を突きつけられるというかたちをとっている。フレンチ警部の捜査と推理がどのようなものだったのかは、すべてが終わった後の2章で(チャールズが退場してから)ゆっくりと説明されるのである。

むしろチャールズは、どのような捜査が行われているのかほとんどわからない状態に置かれており、その疑心暗鬼と一喜一憂を読者は共に味わうことになる。うまいと思ったのは、そうしたチャールズの心の揺れ動きに読者を乗せる手際だ。クロフツは最初に、野心家だが平凡な工場経営者にすぎないチャールズがアンドルー殺害を決意するに至る心理をたっぷりと描き、その後もちょっとしつこいんじゃないかと思えるくらい執拗にチャールズの心理を描写する。それによって、読者はチャールズと共に捜査側の動き(こちらはほとんど闇の中)を探り、不安と安心を繰り返し、最後に奈落の底に突き落とされるのである。犯罪、しかも殺人を犯す人間を描いて読者の共感を得ることは難しいが、クロフツはそこを実に巧みにこなしている(チャールズの殺人が正当化されているということではない。チャールズの殺人行為自体はまったく同情の余地のない身勝手なものである)。

やや古めかしく(書かれたのが70年以上前だからやむをえないが)、目の覚めるトリックやどんでん返しがあるというわけではないが、緻密で厚みのある構成は見事。倒叙ミステリの醍醐味をたっぷり味わうことのできる名作だと思う。