自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【256冊目】石和鷹「地獄は一定すみかぞかし」

地獄は一定すみかぞかし―小説 暁烏敏

地獄は一定すみかぞかし―小説 暁烏敏

副題は「小説 暁烏敏」。暁烏敏は、明治初期に浄土真宗のカリスマ的な僧侶として名を馳せた人である。ただし、いわゆる伝記的なスタイルではない。物語は、現代に生きる語り手である「私」が咽頭がんのため声を失い、リハビリのため発声教室に通うところから始まる。絶望の淵にあって暁烏敏に魅了された語り手が、その教室で知り合った老婦人よね子との筆談による「対話」の中で、その姿を深く知るようになっていく。

暁烏敏自体、僧侶といいつつどろどろの愛欲の中で生き、身勝手とさえいいうる生き様を貫いてきたという。よね子はそんな暁烏に批判的だが、語り手である「私」は、むしろそんな暁烏の姿に自分を重ね合わせ、共感していく。「私」自身、妻を亡くしたにもかかわらず遺影の前で他の女性と交わるような、「煮えたぎるコールタールのごとき」愛欲のはざまでもがいてきたのだ。そして、そのような愛欲の業にまみれ、地べたを這いずるような人生であるがゆえに、阿弥陀仏の救いがあるというのが、そもそも浄土真宗の教えであり、歎異抄の説くところであったはず。親鸞の教えの強烈な逆説が、ここでは暁烏敏の人生と、さらに「私」の人生とに重なり合って、深いところから迫ってくる。それに比べて、世間の道徳や常識にとらわれたよね子の見方は、まさに世間一般の宗教の見方を代表するものであり、歎異抄に対する「異説」そのものの姿としか思えない。

本書は大部分をよね子の手紙や筆談が占めており、小説としてはかなりアンバランスな設計となっている。正直、小説の技法としてはあまり良いものがあるとは思えなかった。しかし、暁烏敏という未曾有の人格をここまで描き、それを通して浄土真宗の教えの奥深さを照らして見せた手際はなかなかのものだと思う。