【17冊目】井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記 本日休診」
ジョン万次郎漂流記・本日休診 (角川文庫クラシックス い 3-1)
表題作2作と「珍品堂主人」の3篇を収めた井伏鱒二の小説集。マイベストは「本日休診」。
「本日休診」の札を出した老医師と、それにもかかわらずひっきりなしに訪れる人々とのやりとりを中心に、ユーモラスに描いた名作である。主人公の老医師が良い。休みたいのにさんざんに引っ張り出され、それでも嫌な顔ひとつせず、かといってまったく恩着せがましい様子もなく、とにかく親身になって駆けずり回る。
言葉や態度の素朴な温かみが文章を通じて伝わってくる。「珍品堂主人」も、作者の温かくユーモラスな目線という点で共通している。解説にもあるが、とにかく庶民を見下ろしたところがまったくない。井伏鱒二は「山椒魚」「黒い雨」くらいしか記憶にないが、こんなに温かく人情味のある小説家だったのか。再発見。
「ジョン万次郎」はやや趣きを異にする。土佐の漁師中浜万次郎は漂流の末アメリカの捕鯨船に拾われ、アメリカで生活したのち江戸末期の日本に戻り、通訳として活躍した。この有名な史実を、歯切れの良い文章で淡々と、丁寧に追っている。しかし、時折見られる万次郎への温かいまなざしは他の2作と同様である。
漁師から二本差しへと、当時としては破格の出世を遂げた万次郎だが、最後に思うのは「もう一度捕鯨船に乗りたかった」ということ。そこに、地位や立場とは別の方向を向いた、万次郎の生粋の漁師としての素朴な感性と、井伏鱒二の皮肉が込められているように思う。