【2741冊目】山崎豊子『約束の海』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン63冊目。
海上自衛隊の潜水艦と釣り船の衝突事故に翻弄される二等海尉、花巻朔太郎を主人公とした長編小説です。歴史をまたいだ大長編として構想されつつ、著者の死で中断された作品ですが、本書だけでもそのスケールの大きさは一級品です。
慣れない専門用語や潜水艦乗りの独特の雰囲気に戸惑う部分もありましたが、途中からはそんなことは気にならなくなります。なにしろ小説としての厚みが凄い。だいたい、事故が起きるまでに本書の三分の一、130ページを費やして、潜水艦乗りの日々をたっぷり描写しているのです。後半では、裁判とは違う独特のルールをもつ海難審判の描写がリアルで、法廷小説としても大変にスリリングなものとなっています。
そして、この小説の一番底に横たわっているのは、自衛隊とは、国防とは何なのか、という問いなのです。本当は本書の後、花巻の父を中心とした太平洋戦争の話が続くはずであり、人間の誇りと生き様をめぐる話がさらに深掘りされるはずだったことを考えると、著者の逝去は残念でなりません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
【2740冊目】宮部みゆき『魔術はささやく』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン62冊目。
およそ20年ぶりの再読。平成元年に刊行された、宮部みゆきの長編第一作ですが、そうは思えないクオリティの高さには、あらためて驚かされます。次々に起きる事件、予想のつかない展開、驚くべき犯罪方法、いずれも見事ですが、一見バラバラに見える要素が、ラスト近くになって一挙に結びつくくだりには、背筋が震えるほどの快感を覚えます。
そしてなんといっても、主人公である高校生の守が魅力的です。父が横領事件を起こして失踪した守は、周囲からさげすまれ、排除されてきました。でもそんな中で、大事なものをきちんと見極め、しっかりと前を向き、それでいてしたたかに生きてきた守。「まっとうに生きる」ことを何より大事にしているその姿は、宮部みゆきの他の作品の主人公にも通じるものがあります。
そしてそんな守が、本書の最後の最後、すべての事件が解決したと思えた後に、とんでもない試練に直面するのです。いや、むしろこの試練をクライマックスとして、著者はそれまでのすべてのシナリオを一挙に収斂させていきます。それは「人は人を裁くことができるのか」という、重い重い問いです。父の犯した罪ゆえに社会に「裁かれ」続けてきた守は、自らが裁く立場になった時どうするのか。それはすべての読者が、同時に突きつけられた問いでもあるのです。
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【2739冊目】中村文則『土の中の子供』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン61冊目。
短いけれど、重く暗い、ねっとりと絡みつくような小説です。いわく言い難い異様な迫力があって、読み始めたら本を置けなくなりました。
親に捨てられ、引き取られた親戚の家で壮絶な虐待を受けた「私」は、山の中で生き埋めにされそうになり、逃げ出します(だから「土の中の子供」なのです)。同じような傷を負った女と住み、タクシードライバーをやっているのですが、心の中にはぽっかりとした虚無が広がっています。その虚無は、気がつくと心の中にじわじわと入り込み、悪意と妄想を撒き散らすのです。
中村文則の小説はこれまで2〜3冊しか読んでいないので、あまりえらそうなことは言えませんが、この本はとてもしっくりきました。確かに陰鬱な小説ではあるのですが、なんというか、作者のピントが今まで読んだ小説の中では一番合っている気がします。作者がもっとも「書かずにはいられない」ことを書いている、というか。おそらく、これまで著者の描いてきた人物の多くもまた「土の中の子供」なのだと思います。そして、これからもまた。
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【2738冊目】二宮敦人『最後の秘境 東京藝大』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン60冊目。
いや〜、これは面白い本でした。マンガ『のだめカンタービレ』や『ブルーピリオド』でなんとなく知っていたつもりにはなっていましたが、甘かった。現実はその斜め上を行っています。
なんといっても、通っている人がみんな超個性的で、美術や音楽に一途に邁進しているのがカッコいいですね。口笛の世界チャンピオンや、田中久重の再来といわれる天才からくり人形造りもいれば、三味線と「カワイイ」の融合を目指すキラキラシャミセニストも、ブラジャーを顔につけた仮面ヒーロー「ブラジャー・ウーマン」もいるのです。
こんなに選りすぐりの連中の多くが、卒業後は行方不明になるというのも面白い。芸術一本で食べていけるのは本当に一部の天才だけで、それ以外の人たちはそうした天才を世に送り出すための、いわばこやしのような存在なのです。残酷なようですが、それもまた世の現実でしょう。
巻末の対談で学長さんが語っているように、功名心や名誉心のようなものがあまり感じられないのも興味深いですね。では、やりたいことをみんなやっているのか、というと、そうとも限らないようなのです。ある人は美術とのつながりを「腐れ縁」と表現し、それを受けて著者はこう書いています。「つまり美術が面白いからではなく・・・・・・美術から逃れられない人が常に存在したから、あそこまでの作品が生まれたのではないか」(p.180)
う〜ん、これはまさにモームの『月と六ペンス』の世界ではないでしょうか。あの小説に出てくるストリックランドも、絵を描きたいのではなく、描かずにはいられない人間でした。藝大とは、そんな人々のエネルギーが渦巻く、究極のカオスなのかもしれません。
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【2737冊目】太宰治『人間失格』
「新潮文庫の100冊2021」全冊読破キャンペーン59冊目。
人間失格といえば「恥の多い生涯を送って来ました」という有名な書き出しですが、実はその前にプロローグがあるのをご記憶でしょうか。
3枚の写真について書かれています。本書の主人公、葉蔵の写真ですが、それを眺めている「私」とは誰なのでしょうか。著者自身、でしょうか。なら、太宰の分身のように描かれるこの大庭葉蔵という人物は誰なのでしょう。
なんだか持って回った言い方になりましたが、結論からいえば、葉蔵は太宰自身であり、その手記を公表しているのも太宰自身なのだと思います。自分のみっともなさ、情けなさをこれでもかと露悪的に綴りながら、そんな自分自身をも突き放して語ってしまう。そんな自身の「サガ」にこそ、太宰自身の絶望の深さが感じられるように思います。
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