自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2603冊目】横山秀夫『ノースライト』


横山秀夫といえば警察小説のイメージが強かったので、読んでちょっとびっくりした。


主人公は建築士。殺人事件や大きな事故が起きるわけでもない。事件らしい事件といえば、主人公の青瀬が設計した家を発注した家族がその家に住んでいない、というくらい。


確かに、三千万円もの金額を払って建てておきながら、住んだ形跡がなく、しかもブルーノ・タウトが設計したとおぼしき一脚の椅子がぽつんと置かれているというのだから、奇妙といえば奇妙な話だ。


とはいえ、青瀬としてみれば家を引き渡した時点で役割は終えているはずであって、その後の発注者の足取りをなぜそこまでしつこく追うのか、正直ピンとこない。結果的にそれが青瀬をめぐる大きなドラマにつながってくるのだが、最初の時点ではそんなことはわからないはずだ。どうもこの部分は、青瀬の、というか著者の空回りに思えてならない。真相の部分も、後から考えると少々独りよがりなものに思える。


だが、そんな瑕瑾を吹き飛ばす勢いで、本書は一気に「読ませる」。青瀬の父とのエピソード、別れた妻と子との関係、勤め先である岡嶋設計事務所での仕事ドラマ。無関係に見えたいくつもの糸が、ラストで一挙につながってくる。その迫力と手際は、さすがとしか言いようがない見事さだ。


読んでいて、松本清張を思い出した。清張もまた、動機や設定の部分で気になる部分はありつつも、そんな気がかりを吹き飛ばして一気に読ませる骨太の小説を多く書いてきた。その根底にあったのは、人間が人間であることの意味であり、喜びであり、哀しみであったように思う。


清張とはやや方向性は違うかもしれないが、横山秀夫もまた、事件だの推理だのといったミステリの要素を超えた、分厚い人間ドラマをものにするようになってきた、ということなのかもしれない。その意味で本書は横山秀夫の新境地とも言えるだろう。今後の作品がたのしみだ。


【2602冊目】岸政彦『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』


こないだの月曜日、なんの気無しに見たEテレ「100分de名著」が思いのほか面白く、あわててテキストを購入しました。


とくに「自分が好きなものや趣味は、自分で選んだつもりになっているが、実は『学歴と出身階層』によって規定されている」という指摘にはびっくりしました。


まあ、言われてみればいろいろ思い当たりますよね。


クラシック愛好家かJ-POPが好きか。


映画なら、ゴダールキューブリックを見るか、あるいはMARVELかハリポタか。


なんとなくテレビをつける時も、NHKのニュースにするかフジテレビでバラエティを見るか。


まあ、あまり書くとイラッとする人も出てきそうなので、このへんにしますが、


どれも、自分で選んでいるつもり、好きで観ているつもりでいますが、


ブルデューによると、これらは育ってきた環境によって無意識のうちに「選ばされているもの」なのだそうです。


こうした選好の基礎になっている習慣を「ハビトゥス」といいますが、


さらにブルデューは、好き嫌いの判断をすることによって、人は「自分のハビトゥスの優位性の押し付けをやっている」とも言っています。


コレもわかる気がします。


今で言えば『鬼滅の刃』の映画のヒットを鼻で笑うような人がいますよね。「なんでアレが流行ってるのかわからん」とか「アレを観るくらいなら○○を観るよね〜」とか。


まあ、要するにマウントの取り合いなわけですが、


人は、なかなか「自分が好きならそれでいいじゃん」とはならない、そういう存在なのですね。そこには必ず、異なる趣味や好みへのディスりが入ってくる。


ブルデューは「趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ」とも言っているそうです。


これって、なかなかにイジワルな見方ではありますが、大事なことは「自分がそうした構造に囚われている」と自覚すること、なのですね。


「自分を規定する構造の正体を見極めることが、自由になる条件」(p.98)ということです。


最後にブルデューの名言を引いておきましょう。


「重力の法則は飛ぶことを可能にする」


来週以降の「100分de名著」がたのしみです。

【2601冊目】高橋ユキ『つけびの村』



2013年、山口県の山間の集落で起きた5人の殺害、そして放火を追ったノンフィクションです。


被疑者の保見光成(ワタル)は、村人に嫌がらせをされている、悪口を言われているという「妄想」に基づき事件を起こしたとされています。しかし、実際に「うわさ」「悪口」はあったのだ、というのが、簡単に言えば本書の骨子になります。


陰口やいじめ、村八分といった行為がこの郷集落にあったのか、というところに、本書の力点はおかれています。


それはいいのですが、事件ルポルタージュとして見た時に、私はどうしても中途半端さというか、踏み込みの浅さを感じてしまいました。


それは、犯人の保見に向き合い、理解することから、著者が「逃げている」という印象が拭えなかったためです。あくまで個人的な印象ですが、書きやすいところだけを書き、理解が難しそうな、コミュニケーションが取れなさそうな犯人のことは最低限にとどめたように思えました。


限られた面会時間だったことを差し引いても、ありていにいって、保見に対しては腰が引けていた。保見からせっかく手紙が送られてきたのに、自分には理解できないと決めつけて、目をそらしてしまっていた。村のうわさ話があったこと、悪口があったことだけを見て、そのことを保見がどう受け止めたのかは、想像しているだけ。正面切ってそのことを保見にぶつけることさえしていない。そして、村の事情に「逃避」した。


それでいて、保見に対しては「犯した罪を真正面から受け止め、死刑執行のその日まで、煩悶し続けてほしい」(p.288)などと書いている。「真正面から」保見に向き合えなかった人が、こういう形だけのことを書いてはいけないと思います。


みなさんは、どのようにこの本を読まれましたでしょうか。

【2600冊目】姫野カオルコ『受難』


なんというか、まあ、ものすごい作品であった。


男にとんと縁のない修道院育ちの「フランチェス子」。話しながら触れるだけで男を萎えさせ、バイブさえ破壊する「異能」の持ち主のアソコに、なんと人面瘡が出現する。しかもこの人面瘡、とんでもなく口が悪く、フランチェス子に向けてブス、ダメ女と罵詈雑言の嵐なのである。


この時点ですでにすごいことになっているのだが、この小説がものすごいのはそこから先、フランチェス子と「古賀さん」と名付けられた人面瘡が、なぜか心を通わせあい、最後には(ややネタバレになってしまうが)プロポーズまでしてしまうのだ。


モテない女をここまで容赦なく、どぎつく描き、読者を笑わせながらも決して不快にさせないのは、著者の腕だろうと思う(これでも不快、という人もいるかもしれないが)。そして、女性の自立だのキャリアの確立だのとなんだかんだ言っても女は男にモテて一人前、といったある種の価値観を、本書は人面瘡の語りという思いがけない方法で、ひっくり返し、笑いのめしているのだが、う〜ん、こんな方法があったのか!


ただ、そこに至るまでには、世の男性(私も含めて)には想像もつかない何重ものひねりが折りたたまれているのであって、その意味で、この本は本質的な意味で女性のために書かれた小説というべきなのかもしれない。ちなみに文庫本では、今は亡き米原万里さんの解説がついていて、これがまたケッサクなのでぜひ読んでほしいと思う。

【2599冊目】伊藤亜紗『手の倫理』


「さわる」と「ふれる」の違いを考えるところから、この本ははじまります。


「傷口にさわる」というといかにも痛そうだけど、「傷口にふれる」だとそうでもない。愛する人は「ふれる」けど痴漢は「さわる」。逆鱗には「ふれる」が、神経には「さわる」。う〜ん。違うのはわかるけど、いったいなにが違うのか。そんな問いかけを出発点にしつつ、著者はその奥深くへと議論を進めていきます。


そもそも人間は、視覚優位の生物です。触覚は「劣ったもの」「低級なもの」として扱われやすい。でも、話はそんなに単純ではないのです。


一般に、触覚の特徴として挙げられるのは「距離ゼロ」「持続性」「対称性」だといいます。


しかし、著者はこう指摘します。


まず、「さわる/ふれる」とは、「距離ゼロ」ではなく「距離マイナス」である。触覚によって、私たちは対象の内部にある動きや流れを感じられるからです。


次に、接触は「信頼」がベースにあります。目を通して知っている人も、「手を通して」知る時に、一種の「出会い直し」が起きている。そして、接触の瞬間に何が起きるかは、接触してみないとわからないのです。そこに横たわっている不確実な要素を飛び越えて、相手を信頼することで、はじめて「接触」が成り立つのです。逆に言えば、そうした点への配慮がなくただ接触する行為は、ある種暴力的でさえあります。


そして、さわる/ふれることはコミュニケーションです。ここで面白いのは、著者が「さわる」を伝達モード、「ふれる」を生成モードとして、コミュニケーションの態様を分けているところです。


伝達モードとは、片方が一方的に情報や指示を伝えるコミュニケーション(医者が患者に「さわる」ようなケースですね)。それに対して、生成モードとは、双方向的であって、あらかじめ準備された何かを伝えるのではなく、その場の交わりの中で生まれてくるようなコミュニケーションなのです。それを小児科医で脳性まひ当事者の熊谷晋一郎は「ほどきつつ拾い合う関係」と呼んでいるそうです。


そして、著者は、こうした関係こそ「倫理」であるというのです。「道徳」と「倫理」のちがいを考えてみると、「道徳」とは普遍的で絶対的な「正しいこと」であるのに対して、「倫理」に一般的な正解はない。「『こうあるべきだ』という一般則としての道徳の価値を知りつつも、具体的な状況というライブ感のなかで行動指針を生み出し続けること」(p.136)が倫理であって、「ふれる」とはまさしく「手の倫理」なのです。


とまあ、こんなふうにまとめてしまうと途方もなく難解な議論に思えそうですが、本書はいろいろな具体的な例を引いてわかりやすく解きほぐしてありますので、その点は心配無用です。いずれにせよ、「さわる/ふれる」ことの奥深さ、おもしろさがよく伝わり、今まで考えたこともないような領域に思考が運ばれる一冊です。