自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2574冊目】児玉真美『私たちはふつうに老いることができない』

 

 

このタイトルが「刺さる」人は、おそらく障害者の親かその関係者だろう。障害当事者にさえなかなか光が当たらない中、「障害者の親」のことはほとんど無視されていると言ってよい。一方、当事者運動や当事者研究の流れの中では、障害者の親は障害者の自立を阻害する「悪者扱い」さえされることがある。

本書はそんな状況に対する異議申し立ての書である。自身も障害者の親である著者の体験と、多くの親へのインタビューを組み合わせて、「障害者の親であること」のリアルを克明に綴る。その世界は、障害者支援に携わった経験のある私でも、正直言って想像を超えるものだった。特に「障害者の母親であること」は、ほとんど「人間を超えること」と同義語であるようだ。

子どもが生まれたばかり、あるいは小さい頃に「子どもに障害がある」ことを受け止めるところから、その道ははじまる。夕方から明け方まで続く「狂気のような」泣き声が続き、その間はずっと子どもをあやし続けなければならない。歩けるようになると、目を離すとすぐ行方不明になるため一瞬たりとも気が抜けないという状況が、場合によっては子どもが成人に達したあとも続く。少なくない家庭で、夫は無理解・無協力、義父母からは「世間体が悪い」「ウチの家系にこんな子はいない」と責められるということも起きる。さらに、健常児のきょうだいがいても構う余裕がなく放置状態になってしまう。大人になれば今度は「子離れしろ」「共依存だ」と言われ、施設に入れれば「子どもを見捨てた」と陰口をたたかれ、かといって自分が年老いるまで家で面倒をみれば、自分の老いや配偶者の介護と大人になったわが子の介助が重なり、預け先が決まらなければ入院さえできない。

誰かに助けを求めればいい、福祉サービスを使えばいい、と思うだろうか。しかし実際には「助けを求めるには余力がいる、その余力もない」(p.79)のである。せめて苦労を分かち合えるのは、同じ「障害者の親たち」の仲間である。全国どこにでも「親の会」があるのは、やはり理由のあることなのだ。

もちろん、苦労ばかりではない。そこにはやはり子どもが少しずつ成長し、歩いたり言葉を話したときの喜びはあるだろうし、障害のある子どもと共に生きるからこその楽しさも発見もあるだろう。しかし、それにしたって、「障害者の親」は今まであまりにも放置されすぎた。どんなに福祉サービスが整備されても、それは親の無償の介助を「含み資産」として計上したもの。障害者本人の介助や支援の担い手とは見られても、親自身が「支援を必要とする人」とみなされることは、おそらくほとんどなかった(わずかに「レスパイト」という言葉があるくらいか)。そんな状況の中、文字通り超人的な活躍を強いられてきたのが、障害者の親たちではなかったか。

本書は障害者の親という「もうひとりの当事者」による、心の叫びを濃縮したような一冊だ。障害者の親である人が読めば、ここにたくさんの同志を見つけることができるだろう。親戚や知人に障害者がいる人が読めば、その親である人を支えるやり方がわかるかもしれない。障害福祉サービスに従事する人、医療関係者などの「専門家」が読めば、障害者の親に対して、今までとはすこし違った接し方ができるかもしれない。ともあれ、いろんな人に、長く読まれてほしい一冊である。

【2573冊目】伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 

 

「目が見えない」とはどういうことか。目が見える人の感覚要素から「視覚」を引いただけ、ではない。それは「目が見える人とは別の世界」を生きるということなのだ。

 

周囲にある「世界」は同じである。だが、目が見える人と見えない人では、そこから受け取る「意味」が違ってくる。では「意味」とは何かといえば、「『情報』が具体的な文脈に置かれたときに生まれるもの」(p.32)である。本書はそのことを、なんと生物学者ユクスキュルの「環世界」という概念をもとに説き起こしていく。ちなみにこの「環世界」概念は、これ自体が「世界の見え方」が変わりかねない衝撃的な理論なのだ。ユクスキュルの『生物から見た世界』をご一読あれ。

 

それはともかく、確かに目が見えない人は、目が見える人より入ってくる情報量は少ない。だが、そこからどのような「意味」を受け取るかという点に関して言えば、目が見える人も見えない人も同等だ。むしろ情報量が少ないだけ、ものごとの核心を衝くような「意味」を受けることができることもある。

 

例えば、視覚とは基本的に「平面的」なものだ。本書の例で言えば、大阪万博公園にある「太陽の塔」を考えてみる。太陽の塔には、正面に2つ、後ろに1つの「顔」があるという。だが、目が見える人は視覚に頼って太陽の塔を見ているので、なかなか3つ目の「顔」には思い至らない。一方、目が見えない人はもともと視覚に囚われていないので、最初から対象物を立体で捉えることができる。そのため、「太陽の塔に顔が3つ」という認識を自然と持つことができるのだ。

 

さらに言えば、先ほど「正面に2つ、後ろに1つ」と書いたが、これ自体が「目が見える人」の思い込みであろう。いったい誰が、顔が2つあるほうを正面と決めたのか。さらに、目が見えないことでなくなるのが「死角」である。「視覚がなければ死角がない」と本書にもあるが、まさにそのとおり。目が見えない人にとっては、正面も後ろも、さらに言えば表も裏も、外側も内側もない。ある視覚障害者が陶芸をやった時に器の「内側」に装飾をつけたというが、それが奇妙だと思うのは、それこそ目が見える人の先入観である。

 

こう考えていくと、目が見えない人と目が見える人の対話は、ある種の「異文化コミュニケーション」に近いといえるかもしれない。ここで大事なのは、「見えること」を基準に考えないことだ。見えている人が一方的に「情報」を提供するだけでは、一方的、恩恵的な関係にとどまってしまう。それよりも、お互いが受け取っている「意味」を相互に交換することの方が大事だし、なにより面白い。そこでは「目が見えない」ことが、お互いの関係を深めるための「触媒」になるという。目が見えない人も目が見える人も、そこでお互いの「見えている」世界を知り、驚き、共感したり違和感を感じたりする。そこに生れるものこそが、ホンモノのコミュニケーションなのだろう。

 

さて、この「題名」が気になっている人もいるだろうから、最後にコメントを。目が見えないのだから、世界を「見ている」ワケないじゃないか、と思われるかもしれないが、著者はそもそも「見える」という作用を視覚と切り離して考えている。本書に出てくる実験で言えば、目の前の風景や映像をビットマップ化して電気的な刺激に変換する装置をおでこに当てて刺激を与えると、目が見えない人も「あ、見える見える!」と叫んだという。「見る」とは、本質的には、目ではなく脳の作用なのである。目以外のところから入ってきた情報であっても、脳が反応することで「見る」ことは当然あり得るのだ。この点では、目が見えない人も目が見える人も、同じような感覚を得ることになる。

 

それ以外にも本書は、運動や絵画鑑賞といった様々な状況における「目が見えない人の見え方」をさまざまな角度から明らかにしていく。そこからまさに「見えて」くるのは、目が見えないことによって得られる豊かな「意味」の世界である。それは、福祉的な視点や医療的な視点からは決して見えてこない、わたしたちのすぐ隣にあるワンダーランドなのである。

 

 

 

【2572冊目】星新一『ボッコちゃん』

 

ボッコちゃん(新潮文庫)

ボッコちゃん(新潮文庫)

 

 

こないだnoteにもアップしたが、久しぶりに読み返したので、コチラにも。中身はほぼ一緒です。

読んだのは中学生のころだっただろうか。当時はほとんどの本を図書館で借りていたので、手元には残っておらず、古本屋で再購入。真鍋博の表紙やイラストがなつかしい。

当時、星新一ショートショートは片っ端から読んでいた。他のどの小説とも違っていた。ドライで未来的な世界観。エヌ氏、エフ氏というネーミングもしゃれていて、人間臭くないのがよかった。思えば私にとってSFの入口は星新一だった。そこから小松左京、クラーク、アシモフと進んでいけば立派なSFファンになれたのかもしれないが、私はなぜかかんべむさし筒井康隆と読み進んでしまい、ブラックでシュールな世界観のほうにどっぷり浸ってしまった。

短いながら周到に物語が組み立てられていて、特に伏線の使い方が絶妙だ。表題作「ボッコちゃん」は、シンプルで機械的な会話(これって現代のスマートスピーカーの先駆では)しかできない美人ロボットという設定を軸に、これをうまく使って儲けようというバーのマスターの思惑と、機械的な会話だからこそハマっていく人の哀しさみたいなものがうまく組み合わさって、ブラックなラストにつながっていく。環境問題をいちはやく風刺した「おーい、でてこーい」は、なんでも吸い込んでくれる穴という都合の良いものに出会った人間の描写がうまい。石ころからゴミ、放射性廃棄物、人間の死体と、読者を巻き込みながらじわじわとエスカレートさせ、ラストで一挙にひっくり返す。文庫本でわずか6ページの分量ながら、人間の愚かしさと環境問題の本当のヤバさを、どんな専門書よりするどく読者に突きつけてくる。

中学生の頃は気にも留めなかった抒情的な作品がけっこう響いてくるのは、やはりそれなりに大人人になったということなのか。「月の光」など、当時はわけもわからず読み飛ばしていたと思われるが、今読むと珠玉の名品である。ホラーっぽい「闇の眼」も、今だといろいろ考えさせられる。人間の能力って何なのか。障害って何なのだろうか。

【2571冊目】吉田伸夫『時間はどこから来て、なぜ流れるのか?』

 

 

映画『TENET』があまりにワケわからなかったので、時間論の本でも読めば少しは理解が進むかと思ったのだが・・・甘かった。こちらはこちらで、よくわからない。とはいえ、わからないなりの「つかみ」はある程度できたような気がする。特に「時間は流れているのではなく、空間のように広がっているだけ」という意味は、少しだけだが自分の中に入ってきたように思う。

 

時間を考えるには、アインシュタイン相対性理論から始めなければならない。ここがたいへんハードルが高いのであるが、本書はアインシュタインの言った「静止と運動は原理的に区別できない」という主張を、いろんな例を使ってものすごくわかりやすく解説してくれている。中で個人的に腑に落ちたと感じたのは、世界地図のモルワイデ図法のたとえだった(厳密にいえばミンコフスキー幾何学の解説だが)。

 

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モルワイデ図法とは、楕円形の中に世界地図を描いたものだ。この地図では、中心に近いほど正確な形となり、端っこのエリアはゆがんで描かれる。日本を中心にすればアメリカの形がゆがみ、アメリカを中心とすれば日本がゆがむ。ここには絶対的な中心はなく、中心と端っこの総体的な関係ですべてが決まってくる。

 

相対性理論も同じようなもので、時間や空間のありようは人によって異なる。本書の例で言えば、地球上のアリスの時計を基準とすれば、宇宙船に乗って進んでいるボブの時計がずれていることになるが、ボブの時計が基準なら、今度はアリスの時計がずれていることになる。絶対的に正しい「時間」というものは存在せず、したがって「現在」というものも「ない」というのである。それどころか著者によれば、時間とはそもそも一方向に進むものではなく、本来は空間のようにただ広がっているだけだ、という。さて、どういうことか。

 

なんとなくつかめたところだけを、ピンポイントで辿っていく。すべての動きが止まり、完全な平衡状態となった宇宙では、そもそも時間というもの自体を観念できない。そして、すべての世界はこうした状態、すなわちエントロピーの最大化に向かって進んでいく。そのそもそもの要因は、ビッグバンという「きわめて整然とした状態」が最初にあったことにある。ところがすべての存在は「秩序から無秩序へ」「整然から混沌へ」と不可逆的に変化する(エントロピー増大の法則)。時間の流れと見えるものは、実は「ビッグバンから遠ざかる向き」「低エントロピーから高エントロピーへの移行」なのである。では、なぜそうした動きに逆らうようにして「生命」が出現したのか、という疑問が浮かんでくるが、その答えを知りたい方は本書をお読みください。

 

なるほど、時間とは本来空間のようなものだ、としよう。だったら、未来や過去へ移動する「タイムトラベル」もできるのだろうか。その場合、「過去の世界で自分の親を殺してしまう」というような「タイムパラドクス」は起きるのか?

 

この点については、著者は「ワームホール」なるものを利用して過去に戻ることができる可能性はあるという。では、タイムパラドクスについてはどうか。著者はここで「『物理現象は、時間の流れに従った順番で決まっていく』という原則など、もともと存在しない」(p.187)という、ギョッとするようなことを言う。言い換えれば、そのようなワームホールが存在するような宇宙があれば、そこはこの宇宙とは全然違う、時空の流れが入り乱れ、ブラックホールがたくさんあって、荒々しいエネルギー流が生じているような宇宙であろう、というのである。

 

なんだかうまくひっかけられたような気もするが、それはともかく「時間は流れていない」「時間は空間のように広がっている」という主張は、なかなか感覚的には受け入れがたいものがある。その理由について著者はこのように書いている。

「時間は物理的に流れるのではない。では、なぜ流れるように感じられるかというと、人間が時間経過を意識する際に、しばしば順序を入れ替えたり因果関係を捏造したりしながら、流れがあるかのように内容を再構成するからである」(p.198)

この第7章はこれまでと違い、認知科学や生理学のアプローチで人間の「時間の感じ方」に迫るものとなっている。そうなのだ。時間論がやっかいなのは、理屈ではそれが正しいと分かっていても、感覚的にその結論を受け入れられないというところにあるのだ(しかも、その「理屈」自体もたいへんむずかしい)。そう考えると、冒頭に挙げた『TENET』のような時間を扱った映画、あるいは時間を扱ったSF小説は、感覚的に受け入れがたいモノを受け入れるためのある種のトレーニングになっているのかもしれない。

 

まあ、それを言えば、そもそも『ドラえもん』が、タイムトラベルやタイムパラドクスを含め、時間に関するありったけの思考実験をぶち込んだようなマンガであった(そういえば映画『のび太の大魔境』のラストなんて、完全に「万物理論パラドクス」である。『TENET』の主人公も同じだが、なんといってもドラえもんのほうが40年早い!)。幼少期からそういうややこしい思考トレーニングを積んでいるから、われわれはワケがわからなくとも『TENET』のような映画を楽しめるのかもしれない。

 

 

Tenet

Tenet

 

 

 

映画ドラえもん のび太の大魔境
 

 

【2570冊目】借金玉『発達障害サバイバルガイド』

 

 

 

 

サバイバルガイドというと、なんだかジャングルにでも行くみたいだが、本書の舞台は普段の仕事や生活そのもの。だが、決して大げさなタイトルではない。発達障害の当事者にとって、この現代社会はある意味でジャングルそのものなのだ。本書は、そんなジャングル的現代社会での「がんばらない」「意識低い系」を徹底した一冊。発達障害当事者として「つまづきやすいポイント」を熟知した著者ならではの具体的なアドバイスがすばらしい。

 

著者のやり方はきわめてシンプルだ。食器が洗えず溜まってしまうなら、食洗器を買え。部屋が散らかるなら、定位置が決まっていないモノを一つの箱にぶっこめ。家計簿がつけられないなら、クレジットカードに支出を一元化せよ、等々。いっさいの努力を求めず、とことんまで「やり方」で解決しようとするスタンスには、感心を通り越して感動さえ覚える。

 

著者がこうしたアドバイスを行うのは、多くの発達障害の方々が「怠けている」「努力が足りない」などと言われ続け、自分でもそう思い続けてきたことの裏返しである。著者はこのように書いている。

 

「どうか『自分は怠けている』という結論に安住しないでください。できないことはできない、ないものはない。いつだってそこから始めていくしかないのです」(p.91)

 

そんなスタンスで書かれた本書は、実は「発達障害以外」の人にもとても役立つものとなっている。少なくとも私は(自分自身がやや発達障害傾向である、ということもあるけれど)、著者のアドバイスでかなり気持ちが楽になり、生活上のヒントをもらった。

 

たとえば、一日にやるべきことを一つの箱に突っ込んでおく「エブリデイボックス」。飲むべきクスリ、読みかけの本、払わなければならない請求書などを、一つの箱にまとめておくという、ただそれだけのライフハックなのだが、これだけで「やるべきことを忘れない」プレッシャーや「払い忘れ、やり忘れ」のミスから一挙に解放される。しかも必要なコストは、100円ショップでも買えそうな、中身の見える箱一つだけなのである。

 

あと、考え方で一番「刺さった」のが、「『休む』は意志の賜物、『頑張る』は惰性」という言葉(p.253)。とりわけ「頑張る」ことが礼讃されがちな職場では、この考え方はとても大事になってくる。多少疲れていたとしても、周りに気を遣って休むより、「頑張って」出勤してしまったほうが実はラクなのだ。だがこの「頑張るという惰性」の積み重ねが、私たちの身体や心を徐々に壊していく。さらに休みの日も、何かしら「有意義に」過ごそうとか、普段できなかったことをやろうとして予定を詰め込んでしまい、結局全然休めない、ということになってしまう。

 

だから「休むのは意志」なのである。月に2日は「完全に休む日」を設けることを著者は推奨する。この「『休む』は意志の賜物、『頑張る』は惰性」という言葉、職場の標語として貼り出しておきたい。

 

発達障害向けと言いつつ、多くの人に役立つという理由が、少しおわかりいただけただろうか。その意味で本書は、「ライフハックユニバーサルデザイン」的一冊なのである。読めば必ずや、しんどい人生が少しだけラクになりますよ。