【2551冊目】加藤徹『貝と羊の中国人』
京劇の研究が専門という著者による中国論。緻密というよりむしろラフスケッチ風なのだが、中国のような巨大で複雑な相手を扱うとなると、このくらい大雑把なほうが全体像をつかみやすい。それと、中国論なのだが、それが同時に日本論になっているところが面白い。書かれているのは主に中国のことなのだが、その「異同」にフォーカスすることで、合わせ鏡のように日本のことが見えてくるのである。
気になったのは、国名のくだり。ふつう、国名は「固有名詞(地域呼称)」+「立国理念(政治体制)」の組み合わせでできている。「アメリカ合衆国」しかり、「フランス共和国」しかり。ところが中国(中華人民共和国)という国名には、地域呼称が入っていない。中華とは「世界の中心に花が咲く」ということであり、つまりこれは理念だけでできている国名なのだ。一方、わが国の国名は「日本国」。こちらは(「日本」が地域呼称といえるかはともかくとして)「立国理念」が入っていない。日本は「王国」でも「帝国」でも「共和国」でもないのである。こういう国もまた、世界的にみればレアである。中華思想という理念を国名のど真ん中に据えた中国と比べると、両者の違いが見えてくる。
善玉と悪玉の違いも興味深い。日本の歌舞伎やマンガでは、悪玉だったキャラクターが後から善玉に変わるということがよく起きる。だが、中国では善玉は善玉、悪玉は悪玉で、両方が入れ替わることはほとんどないという。ちなみに中国にとって、近現代最大の悪玉は「日本鬼子」である。中国の反日感情には、こうした善悪観も影響しているようである。
とはいえ、この反日感情自体も、決して見た目通りではないというからややこしい。本書のタイトルにも関係してくるところだが、中国は昔から「ホンネとしての貝の文化」と「タテマエとしての羊の文化」を使い分けてきた。貝とは古代の貨幣である子安貝を、羊はかつて生贄として用いられたもので「礼」や儀式を意味している。中国人は強烈なイデオロギー(羊)を振りかざす一方、しっかりと実利(貝)は取る。中国で反日プロパガンダが流された時も「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」は普段通り放映され、日本商品も普段通り売れていたらしい。
中国の「多重性」はそれだけではない。支配者が変わっても士大夫という中間支配層は変わらず国の根幹を支えてきた(その基礎を作ってきたのが「科挙」という究極の人材発掘システムだ)。一方では同じ国、同じ時代でも、南北、東西で別の国のように異なる文化や生活様式をもつという一面もある。そんな捉えどころのない大きな「隣人」を理解するうえで、本書は格好の一冊だ。そして何より、冒頭に書いたとおり、中国を理解することは、日本という国を理解することにもつながってくるのである。
【2550冊目】辻陽『日本の地方議会』
地方議会をめぐる書籍の中でも、近年の良書である。新書というコンパクトなサイズの中に、地方議会の制度、現状、問題点、解決策をバランスよく収めている。いたずらな理想論にもヤミクモなバッシングにも走らず、現実をきちんと踏まえた丁寧な議論の進め方に好感がもてる。
本書の特徴は、日本の地方議会を一様のものとは捉えていないことにある。たしかに、定数127名の東京都議会と定数6名の高知県大川村議会はどちらも「日本の地方議会」であるが、これを同じ制度、同じ考え方で扱うこと自体、言われてみれば無理がある。
議員は専門職か名誉職か、といった議論も、こうした現実を踏まえて行う必要がある。例えば、専業議員の割合は都道府県で53.3%だが、これが市区議会では42.3%、町村議会では21.6%にまで下がる。議員報酬は都道府県議会の平均が月額93万円だが、町村議会だと21万5000円。東京都御蔵島村では10万円とのことで、これで専業議員をやれと言われても無理な話だろう。ちなみに、いろいろバッシングされることも多い政務活動費を見ると、都道府県議会の平均が月35万円(最高額が大阪府の月59万円)に対して、町村議会ではそもそも公布している自治体が全体の2割ほどで、金額も平均9,465円。いったい、これで何を「活動」しろというのだろう。
こうした状況を踏まえて著者が提案するのが「多様性の承認」、つまり今は地方自治法で縛られている議会の形態にいくつかのバリエーションをもたせ、自治体の規模や態様ごとに選べるようにするというものだ。その射程範囲には議員の立場や報酬のみならず、選挙制度や兼職制限の緩和にまで及ぶ(実際、地方で議員の成り手が少ない要因の一つに、この兼職制限がある)。
要するに「日本の地方議会」というくくりでモノを考えること自体から、われわれは脱却する必要があるのだろう。そしてそのことは、何も地方議会制度だけに言えることではない。地方ごとの多様性を認め、全国一律の硬直したシステムを打破していくこと。その先にしか、日本の地方自治の未来は存在しないのではなかろうか。
【2549冊目】中村智志『大いなる看取り』
東京・山谷のドヤ街にある「きぼうのいえ」は、行き場のない人々を看取るための施設である。
マザー・テレサの「死を待つ人の家」の日本版を作ろうと、山本雅基、美恵の二人が立ち上げた。そこにやってくる人々は実にさまざま。拳銃を500丁密輸したという元ヤクザもいれば、自分も夫と子がいるのに、妻子ある男と駆け落ちした女性もいる。年齢的に戦争体験者も多い。シベリア抑留を経験した人、元731部隊という人。本書の半分はそうした人々の半生の語りで占められている。六車由美の『驚きの介護民俗学』という本があるが、彼女はむしろここを取材すべきであったかもしれない。「きぼうのいえ」は、まさに昭和という時代のコアでディープな語り部たちが勢揃いしている施設なのだから。
彼らを支え、共に暮らす「きぼうのいえ」のスタッフたちがすばらしい。それぞれが個性豊かで海千山千、一筋縄ではいかない利用者の、しかも死を目前とした状況を、温かく、真摯に、しかし決して深刻になりすぎることなく受け入れていく。興味深いのは、スタッフはすべての利用者と平等に接しないようにしている、ということ。むしろ、人には相性というものがあるのだから、相性の合う利用者と積極的に親密な関係を作っていく。ふつうの「施設」ではありえない発想かもしれない。しかし、こうして作られた心の深い結びつきが、死を目前にした「きぼうのいえ」での生活に、落ち着きと彩りを添えてくれるのである。
死を迎えるための施設であるがゆえに、ここは他のどこよりも「生きる場所」たりえている。なぜこんな「場」が可能なのだろうか。何よりも、山谷という、日本の問題や病理を凝縮したような場所にこのような施設が生まれたことの意味を、私たちは真剣に考えなければならないように思われる。
【2548冊目】真魚八重子『バッドエンドの誘惑』
う〜ん。残念ながら、私にはちょっと合わなかった。タイトルはけっこうツボだったんだけどねえ。
「イヤミス」ならぬ「イヤ映画」という切り口で映画を紹介するという着眼点は悪くないと思う。ただ、この手の本としては町山智浩『トラウマ映画館』という決定版があるのだから、同じようなテーマで本を書くなら相当の覚悟が必要だ。だが残念ながら、本書は映画のセレクションも内容の紹介も、『トラウマ映画館』に遠く及ばない。総じて言えば、本書を読んでいても「こんな映画があったのか!」という驚きが感じられない。
ということで、本書自体について書くことはあまりないので、ここからは「ないものねだり」。
映画のみならず、小説にせよ戯曲にせよ「バッドエンド」はつきものだし、悲劇というジャンル自体がバッドエンドそのものだ。「なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか」と問うのであれば、そもそも、なぜ古代ギリシアの昔から悲劇の名作が生み出され続け、人はバッドエンドに魅せられ続けるのか、というところから考える必要があるだろう。ソフォクレスの『オイディプス王』やシェイクスピアの四大悲劇、あるいは日本であれば近松の心中ものなど、映画の枠にとらわれず、もっと深いところから掘り起こさないと、その本質は見えてこないように思われる。
そこに思いが至れば、ラース・フォン・トリアーやミヒャエル・ハネケに対しても、もう少し違った解釈ができるのではないか(本書ではこの2人については「イヤな映画を撮ってやれ」という作為が感じられるということで除外されている)。あと、最近は小説でも「イヤミス」が人気だが、これってどういうことなのか。怪談ブームとかゾンビものとはどう違うのか。ノンフィクションでも事件実録ものがいろいろあるが、それとの関係はどうなのか(『凶悪』とか『冷たい熱帯魚』などは実際の事件が元ネタのバッドエンド映画だ)。等々、「バッドエンド」って、いろいろ深掘りもできれば広げることもできる面白いテーマだと思うんだが。映画だけの話にしてしまってはもったいないし、それなら『トラウマ映画館』のように、映画の話だけで最後まで読ませる「力」がほしかった。
【2547冊目】クリスチャン・メルラン『オーケストラ』
本文500ページ以上。索引だけで30ページ以上。おそるべきボリュームに最初はビビるが、読み始めると面白くてやめられなくなる。というか、読み終わるのが惜しくて、2カ月以上かけて寝る前にチビチビ読んでいた。
オーケストラの設立、運営をめぐる台所事情、メンバーの採用や昇格・降格、すべての楽器に及ぶ詳細なプロフィール、そして指揮者との関係と、ほぼ書かれていないことはない、というくらいに、基礎知識から笑えるエピソードまでがぎっしり詰まっている。コンサートの本番中に第一ヴァイオリン奏者が楽譜を紙飛行機にしてティンパニ奏者に飛ばした話、ベルリオーズの「幻想交響曲」で舞台裏に設置されたベルを鳴らす団員が、管理人に阻まれて舞台裏に入れてもらえなかった話、海外演奏旅行の際に税関のストで楽器がすべて止められてしまい、現地で楽器をかき集めた話など、びっくりするようなエピソードが山ほど詰まっている。
今ではどのオーケストラでも、女性団員が当たり前になったが、かつてはそうでなかったことについてもしっかり触れられている。1980年、トロンボーン奏者のアビー・コナントは、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のオーディションを通過して第一トロンボーン奏者となったが、指揮者のチェリビダッケが反対したため、正式採用は第二トロンボーン奏者としてだった。チェリビダッケは「当然だと思わないかね。このポストは男でなければいけないんだよ」とは言ったとか。ミュンヘンだけではない。かのウィーン・フィルが初めて女性団員を受け入れたのは、なんと1997年のことなのである。
指揮者との関係もたいへん微妙なようである。中でもフランスのオーケストラ(特にパリ国立歌劇場管弦楽団)はいわくつきだという。ある指揮者とのリハーサルでは、楽団員の一人が急に「あれ、どこにいったんだ」と言って四つんばいになり、他の団員も続いた。指揮者が「いったい何を探しているんだ」と問いただしたところ、楽団員たちはこう答えたのだ。「正しいテンポです」 そういえば『のだめカンタービレ』で千秋が正指揮者に就任したのもフランスのオケだったが、あのマンガでも無能な指揮者がオケにガン無視され、怒って帰るエピソードがあった。あれもこうした「事実」を反映していたのか。
こうしたネタがふんだんにちりばめられているので、オーケストラに興味がない人にとってはチンプンカンプンだろうが、クラシック音楽やオーケストラに興味がある方にはおススメしたい。とりわけ、実際にオーケストラに入っている方は、必読。値段はすこしお高めだが、それだけの価値はあると思いますよ。