自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【2517冊目】高石宏輔『あなたは、なぜ、つながれないのか』

f:id:hachiro86:20200702224211j:plain



このタイトルは、ちょっとずるい。人間関係やコミュニケーションに悩む人であればあるほど、このタイトルは釣り針のように引っかかって外れなくなる。

 

内容もまた、心に引っかかって外れなくなる「釣り針フレーズ」が満載だ。著者は大学時代に心を病み、路上ナンパを始め、風俗のスカウトマンをやり、カウンセリングを学びカウンセラーになったという変わったキャリアの持ち主。だが、本書で紹介されているのは、そうした経歴から想像されかねないような上っ面のテクニックではない。むしろ「人と人が「つながる」とはどういうことか」というテーマを深く深く掘り下げた、きわめて本質的なコミュニケーション論となっている。

 

そもそも、相手を「分かる」とはどういうことか。そもそもそんなことは可能なのか。著者は「相手に対して、あぁ分かるなぁと共感してしまったとき、分かっていないと思った方がいい」(p.66)と断言する。だいたい、相手のことが100パーセント分かるなんてありえない。むしろある程度の「分からなさ」を抱え、あるいは自分の相手に対する理解の不足やズレを常に意識しつつ、注意深くアンテナを張り続けることが重要なのだ。ところが、相手のことが「分かった」と思った瞬間、私たちはそういった作業をサボり、「自分(だけ)があの人のことを分かっている」という確信に寄り掛かってしまう。子どもに対する親、恋人同士、あるいはカウンセラーとクライエントの関係にも、こうしたことが起こりやすいので注意が必要だ。

 

人のことを理解するには、頭よりむしろ「感じる」ことが大切だ。そして、そのためには、自分自身を深く認識し、覚知することが前提になる。この点で本書がユニークなのは、自分の「身体」を観察するためのエクササイズを紹介していることだ。自分の身体を観察し、認識することは、そこをとっかかりにして自分の心の中を洞察することにもつながってくる。さらに、このエクササイズを応用することで、相手とも身体的に同調することができるようになるのである。

 

「人は空っぽの身体の中で他人を感じる」(p.119)

 

相手のことを感じ取ろうと思った時、どうやってもそこに「自分」が混ざり込んでくる。自分の考え、自分の感情、自分の価値観・・・。その点に無自覚だと、相手の気持ちを理解したつもりになっていても、それは実は自分自身の感情だった、というようなことが起きてしまう。だからこそ、そうした「自分の混ざり込み」をできるだけ自覚していくことが、相手を真に理解し、感じるためには必要となる。

 

一方、相談援助のような仕事をしていると、相手を「説得」しなければならない場面に遭遇することも多い。だが、その時に相手の気持ちに同調できていないと、まず説得はうまくいかない。理屈をいくら並べ立ててもダメである。それよりむしろ、まず自分の主張をおさえ、自分を空にして相手と同調し、自分自身が相手の気持ちになるくらいのつもりで相手を受け入れることが大事になる。

 

「相手の状態を映す人形になりきれていればいるほど、他人の状態を変えていくこともできる」(p.132)

 

このあたりになってくるともはや「奥義」と言った感じもする。自他即融、自即他。だがこうなってくると、自分の意識を自己の内面と周囲の他者のどちらに向けるべきかが悩ましくなる。自分ばかり見つめていてもダメだが、自分をほったらかしにして他人のことばかりに意識が向いているのもダメである。

 

著者は「内側と外側に同時に意識が向いている状態」(トランス状態)を維持するように言う。本書の第6章はまるまる、そうしたトランス状態に入るための方法と考え方について書かれている。それほどにこれは難しい。自分ばかりに囚われてはいけないが、他人ばかり見ていてもダメなのである。いわばダブルフォーカスが必要なのだ。

 

特にやっかいなのは、自分自身が抱えている「悩み」がある場合である。ここでは「悩み続ける人は、その悩みに捉われている自分自身を嫌っているから、同じことで悩み続けてしまう」(p.203)というくだりが重要だ。そう、確かにそうなのだ。ここでもやはり必要なのは、悩みそのものではなく「悩んでいる自分」にフォーカスし、「自分はなぜそのことを悩んでいるのか」を考えることなのである。

 

ここでは著者のあげている例が興味深い。繊細すぎることが悩みのタネで、いつも周りの無遠慮な振る舞いにイライラしていた著者に対して、その時の「先生」はこう言ったのである。

「たしかに君は繊細だ。だけど、世の中にはもっと繊細な人がいる。君はもっと繊細になれるし、ならないといけない」(p.206)

 

ここで起きているのは、「繊細さ」自体をどういうするということではない。「先生」は、著者の繊細さに対する見方、認識を変えたのだ。そして、著者はこの一言をきっかけに、「繊細すぎる」ことを気に病むのではなく、ひとつの武器、長所として認識した。これによって、著者の「繊細さ」そのものは変わらなくても、それに対する悩みは見事に消えたのである。

【2516冊目】アニー・デューク『確率思考』

 

f:id:hachiro86:20200630214649j:plain

 

著者の経歴が異色である。現在は意思決定コンサルタントとして活躍中とのことだが、その前はなんと、プロのポーカー・プレーヤーだったのだ。世界大会での優勝経験もあるというから、ギャンブラーのトッププロといっていい。。

本書は、そんな「賭けの達人」の視点から、人間の思考と意思決定を読み解く一冊だ。原題は「thinking in bets」だから、まさに「賭けるように考える」あるいは「ギャンブルに学ぶ思考術」。邦題の「確率思考」は、いささか生真面目すぎるというか、ちょっとニュアンスが違い過ぎる。日経BPにギャンブル臭は似合わないと思ったのだろうか。

著者は言う。人生とはチェスではなく、ポーカーのようなものだ、と。チェスはすべての要素が見えている「完全情報ゲーム」である。だが、人生には不確実で見えない部分が付き物だ。引っ越し先の隣人はとんでもないトラブルメーカーかもしれないし、転職先が倒産するかもしれないし、結婚する相手はDV夫かもしれない。人生のほとんどの局面において、われわれは不完全な情報をもとに、人生の重要事を判断し、決定しなければならないのである。

 

それだけではない。さまざまな情報が目の前にあったとしても、われわれはそれを正しく把握し、理解できるとは限らない。例えば心理学者のダニエル・ギルバートは「人は聞いたことや読んだものを自動的に信じる」ことを明らかにした(p.67)。わたしたちは、ある情報について「正しいかどうか吟味し、真実かウソか判断した後に信じる」のではなく「まず目の前の情報を信じ、その後で時間があったり気が向いたりすれば、内容が真実かウソか吟味」するのだという。そして、いったん真実と信じ込むと、今度はそれと矛盾する情報をすべてウソと決めつけ、退けてしまうのだ。まるで、カルガモのヒナが最初に見た相手を親と信じ込むように。

では、私たちはこうした思い込みに一度ハマってしまうと、二度と抜けられないのだろうか。ここで著者は、ひとつの妙案を提示する。誰かに「賭けるか?」と言ってもらうのだ。「新型コロナウイルスは25度のお湯で死滅するって本当かい? だったら、1万円賭けようか」と言われたら、誰でもネットで見つけたデマ情報が本当かどうか、少しは疑う気持ちになるのではなかろうか。

結果によって物事を判断するのも、われわれの悪弊である。それは、酔っぱらって車を運転して、たまたま事故を起こさなかったからと言って、飲酒運転しても危険はないと言うようなものだ(大真面目にそう主張する人も時々いるが)。だが、これはギャンブルで言えば、単なるラッキーな結果を実力だと思い込むようなものだ。たまたまストレートフラッシュができたとしても、それが自分の戦略の成果なのか、あるいは単なる幸運だったのか、あなたは正確に判断できるだろうか。

 

またコロナの例を出すが、このケースで思い出すのは「新型コロナウイルスの感染者数が少ないのは、国の政策が適切だったからだ」という、安倍総理の記者会見でのコメントだ。これって「事故を起こさなかったから飲酒運転しても問題ない」というのと何が違うのだろうか? 本当にこれが結果オーライではなかったと、いったい誰に言えるだろうか。

 

こうした認識のトラップに陥らないためには、仲間の助けを借りることも必要だ。腑に落ちたのは「説明責任」という考え方。これはつまり、自分が何かを決めたとしても、その理由を仲間に説明しなければならない、という縛りを設けることだ。後から説明が求められるとあらかじめ分かっていれば、思い込みで道を外れそうになっても、踏みとどまることができる可能性は増える。ポーカーで1日の賭け額の上限を決めて仲間に伝えておけば、いざプレー中に熱くなって上限額を超えたくなっても、仲間の顔が思い浮かぶというワケである(ギャンブル依存に限らず、依存症の人の多くが孤独なのも、このことと関係しているのかもしれない。彼らは「踏みとどまるタイミング」を教えてくれる仲間がいなかったのだ)。

 

このやり方の応用編が「未来の自分を想定する」という方法である。どうしてもケーキが食べたくなったり、今の会社で上司に辞表を叩きつけたくなったら、食べた後や辞めた後の自分の気持ちを想像するのだ。ここでは、ジャーナリストのスージーウェルチが提唱する「10-10-10」という考え方がおもしろい。ある選択をしようかどうか迷った時には「その選択をした(あるいはしなかった)10分後、10か月後、10年後はどうなっているだろうか?」と考えるのだ。あるいは「今が、その決定をした10分後、10か月後、10年後だったら?」と考えるのもよい(個人的には後者の方がリアルに想像できるような気がする)。

不確実性を人生から取り除くことは、不可能だ。だが、だからこそ人生は面白い。本書はそんな人生の彩りにはならないだろうが、少なくともそこで溺れないためのヒントにはなっている。これはそんな、プロのギャンブラーによる「人生の泳ぎ方」の秘伝集なのである。

【2515冊目】藤沢晃治『「分かりやすい表現」の技術』

 

 

最初に一言。この本、今年1月に新装版が出ている。しかも単行本である。新書が単行本として「新装」されるのはちょっとめずらしいが、それほどに本書が「良書」であることを物語っている。ちなみに私が読んだのは、1999年刊行のブルーバックス版。

 

まず本書のタイトルに注目を。「分かりやすい表現」にカギカッコがついている。なぜだろうか? 『分かりやすい表現の技術』だと、「分かりやすい『表現の技術』」だと思われる可能性があるからだ・・・たぶん。本書第4章「『分かりやすい表現』のルール・ブック」でいえば、ルール6「複数解釈を許すな」に該当する。著者は自らの本のタイトルでこれを実践していることになる。

 

世の中には「分かりにくい」表現があふれている。看板、ポスター、マニュアル・・・。かく言う私の所属する役所など、恥ずかしながら「分かりにくい表現」のオンパレードである。最近では、特別定額給付金の「支給不要のチェック欄」が分かりにくいとメディアやネットで指摘を受けたが、役所にはこの手のものがとにかく多い。

 

わざわざ「分かりにくく」しようと思って、看板やマニュアルを作っている人はいないはずだ。なのに、なぜこれほどまでに、分かりにくい表現だらけなのだろうか? 本書はそのことを考えるにあたって、そもそも「『分かる』とはどういうことか」というところまでさかのぼって解説している。それが本書の第2章なのだが、この説明がまず、ものすごく分かりやすくてよくできている。ここでは結論の2か条だけを引用するが、これだけでも見事な洞察だ(p.41)。

 

 ①「分かりやすい」とは「分かっている」状態に移行しやすいという意味である。
 ②「分かっている」状態とは「情報が脳内整理棚の一区画にしまわれている」状態である。

 

 

本書の真骨頂は第3章だ。ここでは、世間で見かけるありとあらゆる「分かりにくい」ものをピックアップし、著者みずからがそれを「分かりやすく」手直ししている。そのビフォー・アフターは実に鮮やかなもの。分かりにくくごちゃごちゃした説明文やら看板やらが、ちょっとした強調、省略、順番の入れ替えなどでガラリと変わるのだ。具体例を挙げたいところだが、レイアウトやフォントの工夫など、テキストベースで紹介しづらい部分ばかりなので、ぜひ本書にあたってほしい。

 

参考になった考え方も多い。例えばフールプルーフという言葉。これは「あまり注意深くない人々の存在を織り込んで、その対策が講じられている製品」(p.61)とのこと。まあ、フール(fool)とは直訳すれば「バカ」という意味だから、「バカでも分かる〇〇」と言ってしまえば良さそうだが、さすがにお客様や住民の皆様をバカとは言いづらい。

 

役所の文書が分かりにくくなる一つの原因が、この「フールプルーフ」を勘違いしているためではないかと私は思っている。「どんな人でも理解できるように」と、やたらに言葉を足したり、要らずもがなの注意書きを入れているうちに、気付くと説明がごちゃごちゃして分かりにくくなってしまうのだ。だが、これは方向性としては正反対。必要なのは、専門用語を使わないこと、余計な情報をそぎ落としてシンプルに伝えること。さらに言えば「相手の立場に立って考える」ことなのだ。実際、部署のベテランが作った資料より、異動して2年目くらいの職員の資料の方が理解しやすい、ということがよく起きるが、要するにそういうこと。

 

「情報のサイズ制限を守れ」という指摘も重要だ(p.105)。ここではビール瓶のたとえが分かりやすい。そもそも人間には、一次記憶域(いわゆる短期記憶)と二次記憶域(いわゆる長期記憶)がある。一次記憶域はビール瓶の狭い口のようなもので、ここを通らないくらい大きいものは、ビール瓶の中(二次記憶域)までたどり着かず、記憶されない。したがって、単位あたりの情報量は小さくする必要がある。長い文が分かりにくい理由の一つがこれである。公文では「記書き」と言って、「記」の下に箇条書きで項目を立てて内容を書く手法があるが、これも情報のサイズを小さくして理解しやすくする、という狙いがあるのかもしれない。

 

ここに挙げたのは本書に登場する「ルール」のごく一部にすぎない。他にも「まず全体地図を与える」「情報を共通項でくくる」「具体的な情報を示す」「自然発想に逆らわない」などの、いずれも超重要な「分かりやすい表現の基本」が、実例つきで紹介されている(自然発想とは、例えば「入門編は応用編より先」とか「赤色の蛇口と青色の蛇口があったら、赤色からはお湯、青色からは水が出る」といった、多くの人が自然にもっている発想のこと)。どんな人にも一読をおススメしたいが、特に自治体職員にとっては必読テキスト。できれば新人職員と管理職全員を対象として、本書をテキストに研修を行うべきである。

 

 

新装版「分かりやすい表現」の技術 意図を正しく伝えるための16のルール

新装版「分かりやすい表現」の技術 意図を正しく伝えるための16のルール

  • 作者:藤沢晃治
  • 発売日: 2020/01/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 

【2514冊目】吉村昭『透明標本 吉村昭自選初期短篇集2』

 

透明標本-吉村昭自選初期短篇集II (中公文庫)

透明標本-吉村昭自選初期短篇集II (中公文庫)

  • 作者:吉村 昭
  • 発売日: 2018/10/23
  • メディア: 文庫
 

 


自選初期短篇集として編まれた2冊のうちの1冊。もう一方の『少女架刑』のレビューはコチラ

吉村昭といえば歴史モノや、実際の事件をもとにした作品が多い印象があるが、それと比べると、この初期短篇集2冊はなんとも異色だ。なにしろ、そこに常に横たわっているのは「死」なのである。いや、むしろ「死」を描くことによって、「生」そのものを逆照射しているというべきか。

冒頭の「墓地の賑わい」が印象深い。自分の夫と不倫して心中を試みて失敗し、両脚を失った妹を家の2階に閉じ込めている姉、という設定がまず怖い。姉の商売が、スプレーで色付けしたヒヨコを売るというもので、弱ったり死んだヒヨコを隣の墓地に捨てに行くのが語り手の幹夫の役目である。妹に頼まれてこっそりヒヨコを渡す幹夫。だが妹は、2階の窓から見える墓地の清掃夫に心奪われ、ヒヨコは無惨にも死んで虫がたかっている。

透明な骨格標本を作ることに囚われ、思いもかけないやり方で入手を果たす「透明標本」の倹四郎。「背中の鉄道」に登場する骨だけで泳ぐ鯛と、手術で抜き取られた自分の背中の骨の不気味な対照。「煉瓦塀」で血清を取るために殺される馬を助けようとする兄と妹。「キトク」で、父が死にかかっているとことあるごとに息子に電報を打つ母。どの作品でも、「死」が独特の手触りで迫り、あるいは横にいる。

ラストの「星への旅」も忘れがたい。自殺を試みるためトラックで移動する若者たちと、貧しい漁村の人々、そして空いっぱいに広がる星のコントラスト。そして容赦なく迫る死の瞬間。まさにこの異様な「初期短篇集」のカーテンコールにふさわしい逸品だ。

【2513冊目】赤坂憲雄『排除の現象学』

 

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)

排除の現象学 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:赤坂 憲雄
  • 発売日: 1995/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

本書が刊行されたのは1986年。当時の日本では、すでにさまざまなカタチでの「排除」が起きていた。そして残念なことに、当時と現代を比べると、どう考えても、排除や差別の度合いは増している。なぜこんなことになってしまったのかを考えるうえで、本書はいろんなヒントを与えてくれる。

 

本書の第1章のテーマは「いじめ」である。ちなみに1986年とは、中野富士見中で男子中学生が自殺した「葬式ごっこ事件」の年である。実際に本書の文章が書かれたのはそれより前だが、すでに各地の学校でいじめによる自殺が報じられ、いじめ問題は広く認識されていた。

 

著者は学校のいじめを、昔ながらのいじめとは異質なものと考える。学校のいじめの特質は、それが学校という、きわめて均質性の高い場所で起きることにある。著者はこのことと、1979年の養護学校義務化をつなげて考える。障害児という「差異を抱えた子ども」が普通学校から姿を消したことにより、教室内の均質性が高まった。そして、それと同時に起きたのが、差異に基づく秩序の喪失だったのである。

 

まったく同じような人々ばかりの集団は、かえって秩序が生まれにくい。そして、集団が自分と同じようなメンバーで構成され、秩序が失われそうになると、人はわずかな差異を見つけたてて攻撃することで、どうにか秩序を保とうとするという。フランスの人類学者ルネ・ジラールに依拠しつつ、著者はこう書いている。

 

「差異の消滅。この秩序の危機にさいして、ひとつの秘め隠されていたメカニズムが作動しはじめる。全員一致の暴力としての供犠。分身と化した似たりよったりの成員のなかから、ほとんどとるに足らぬ徴候にもとづき、ひとりの生け贄(スケープ・ゴート)が択びだされる。分身相互の間に飛びかっていた悪意と暴力は、一瞬にして、その不幸なる生け贄に向けて収斂されてゆく。こうして全員一致の意志にささえられて、供犠が成立する。供犠を契機として、集団はあらたな差異の体系の再編へと向かい、危機はたくみに回避されるのである」(p.63)

 

 

つまり、子どもたちはいじめを行い、いじめられっ子を生け贄とすることで、どうにか学校(教室とかクラブ活動とか)における秩序を維持しているというのである。そして、こうした状況は学校の中だけに限らない。例えば、第4章で紹介されている自閉症者施設の「排除」問題だ。

 

舞台は埼玉県の鳩山ニュータウン。この近くで建設計画がもちあがった自閉症者施設「けやきの郷・ひかりヶ丘学園」に対して、住民たちが反対運動を繰り広げた。問題はこの「ニュータウン」の独特な様相だ。似たような2階建ての戸建て住宅。分譲価格はどれも2700万円前後。ほとんどの家庭で、父親は東京まで通勤し、母と子が残される。収入も生活形態もそっくりの異様に均質的な空間は、さながら先ほど書いた学校の教室のようだ。

 

そこにやってこようとした「自閉症者施設」は、明らかに彼らにとって異物だった。いや、著者によれば、鳩山ニュータウンの住民は、自閉症者施設という異物の排除を通じて、はじめて共同体たりえたのである。示唆的なのは、ニュータウンが来る前からそこに住んでいた人々は、おおむね施設建設に賛成か無関心であったという事実。彼らにとっては、そもそもニュータウンの住民自体が巨大な異物であって、自分たちを飲み込むガン細胞のような存在だったのだろう、と著者は指摘する。

 

この種の構造は現代日本にも見え隠れする。少し前に話題となった、港区青山という高級住宅街における児童相談所の建設反対運動も、大騒ぎをしたのは比較的最近住み始めた成金連中であって、前から青山地区に住んでいる人の多くは建設に理解を示していた。均質性が高く異物を認めない、いや、異物を排除することではじめて共同体たりうる、こうした集団の不気味さとは何なのだろうか。

 

本書は他にも、横浜で起きたホームレス殺害、「イエスの方舟」事件、通り魔事件における「精神鑑定」のあり方など、さまざまな角度から、排除される人々、排除する人々の深層に迫っていく。共通するのは、そこに明らかに「差別」や「排除」が見られるにもかかわらず、排除している側の人々がその自覚に乏しいことだ。

 

終章では、著者は「健康な差別」「不健康な差別」という別役実の言葉を紹介する。歴史をさかのぼってみれば、差別も排除も常に行われてきた。だが、かつてはホームレス=浮浪者=乞食は「聖なる存在」としての意味ももっており、差別されると同時にどこか神性を持つ者と考えられていた。あるいは、身体的な障害はスティグマ=聖痕としての意味合いを持ち、そうした欠損を背負った者はヒーローでもあったのだ。精神障害や知的障害もまた、差別されると同時に、この世とは異なる世界への回路をもつ、聖なる存在としてもみなされていた。そこでも確かに差別はあったが、それは別役のいう「健康な差別」であったのだ。

 

一方、本書で紹介されている差別は「不健康な差別」である。それは、差別という自覚なく行われる差別である。「わたしたちが差別という現実から巧妙に逃れ、それとじかに対峙しないですむ心理的な安全弁」(p.307)である。差別をしてもいい、ということではない。だが、差別なしに人は生きられるか。排除なしに集団は成り立つか。差別や排除が避けられないのであれば、せめてわたしたちは、それを「善意」とか「その人のため」とかいったキレイゴトで覆い隠そうとするのではなく、自分が「差別する存在」であること、集団を維持するための生け贄を常に探していることを、痛烈に自覚すべきなのである。逆説的ではあるが、そうした「原罪」をわたしたちが背負っているという自覚だけが、差別、とりわけ「不健康な差別」を減らしていく唯一の方法なのではあるまいか。