自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2512冊目】シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス『迷惑な進化』

 

 

たとえば、ヘモクロマトーシス。体内に鉄が溜まるという遺伝病である。西ヨーロッパ系の人々に多く、原因となる遺伝子をもっているのは3~4人に1人。ただし実際に発症するのは200人に1人くらいだという。

 

なぜこんな遺伝病が存在するのか。発症しても何のメリットもないこんな遺伝病が、なぜ進化の過程で自然淘汰されなかったのだろうか。本書はこんな問いかけからはじまり、糖尿病、コレステロール、ソラマメ中毒、メジナ虫など、一見不都合しか見当たらないような病気や体内物質が存在する「理由」に迫っていく。

 

ヘモクロマトーシスでいえば、答えは中世ヨーロッパで流行したペストにある。ヘモクロマトーシスの人は体内に鉄を蓄積する一方で、白血球の一種であるマクロファージには鉄分が少ない(ヘモクロマトーシスは鉄の吸収が阻害される病気なので、マクロファージに鉄分が行きわたらないのだろうか)。一方、通常の人の場合はマクロファージに多くの鉄分が含まれている。そして、ペスト菌はマクロファージに含まれる鉄に惹き付けられるのだ。ヘモクロマトーシスの人はペストに罹患する率が低く、結果として生き延びて子孫を残した。だから、現代でもヘモクロマトーシスという、一見何の役にも立たない遺伝病が残っているのである。

 

では、次にみなさんの関心が高いであろう「糖尿病」について。実は糖尿病の存在は、氷河期と関係がある。寒さから身を守るため、氷河期に生きるわれわれの祖先は、インスリンの生産を止めることで血糖値を上昇させ、血液の氷点を下げるという戦略を選んだのだ。あるいは、同じように悩んでいる人が多いであろうコレステロールについてはどうか。コレステロールは、太陽光を浴びることでビタミンDに変わる。だからたとえば、夏場にたっぷり太陽光を浴びてコレステロールをビタミンDに変えておけば、冬を乗り切ることができる。そうやって自然淘汰が行われてきた結果、われわれは糖尿病や高コレステロールに悩まされることになったのだ。

 

こんな話もある。ヨーロッパ人に比べ、アジア人は酒に弱い人、飲めない人が多いとされている。著者は、その要因として飲料水の確保をめぐる歴史の違いを挙げる。文明が進んだ地域では、多くの人間が都市に集住する。だが、都市の環境は今よりはるかに劣悪であり、中でも「毒されていない水を飲めるかどうか」が生死の分かれ目だった。そこでヨーロッパ人たちは「発酵」によって殺菌したアルコール飲料を飲むことにした。そのため、ヨーロッパではアルコールが飲めない人の多くは生き残れず、結果として「酒に強い」遺伝子をもつ人が子孫を増やしたというわけだ。一方、アジアでは「煮沸消毒」が選ばれた。水を沸騰させることで殺菌を行ったため、そうした「淘汰」は働かなかったというわけだ。

 

もうひとつ、痛ましい話。これは諸説ある中のひとつとされているが、アメリカに住む黒人の高血圧発症率は、それ以外のアメリカ人の2倍以上だという。その原因は長らく、黒人には貧困層が多いことから、塩分の多い食事を多く取る人が多いためとされてきた。だが、どうやらそうとは限らないようなのだ。

 

考えられる仮説のひとつは、こうだ。奴隷貿易で黒人がアメリカに連れてこられた時、その環境はひどいものだった。食べ物も飲み物も与えられないまま、船の中で人がバタバタ死んでいく。その中で生き残ることができたのが、「生まれつき体内の塩分濃度を保つことができる」人だったのだ。つまり、アフリカ大陸からアメリカに異動する奴隷船の中で恐るべき「淘汰」が行われたのである(たしかに、アフリカの人々は、アメリカに住む黒人のように高血圧を多く発症するわけではない)。そうした黒人たちが現代の塩分の多い食生活に放り込まれれば、もともとの素因からあっという間に塩分の取り過ぎになり、高血圧を発症するというわけだ。

 

さて、本書では遺伝子そのものの変容についても詳細に触れられていて、これがまたたいへんおもしろい。詳細は直接本書にあたっていただきたいが、多くの遺伝子を一挙にコピー&ペーストしてしまう「ジャンピング遺伝子」や、遺伝情報発現のスイッチを操作するエピジェネティクスなど、固定的なものと考えられがちな遺伝情報が、実はダイナミックに変容していることがよくわかる。ジャンピング遺伝子には、ウイルスの遺伝子がヒトに取り込まれたものも多いという。このあたりは、第5章「僕たちはウイルスにあやつられている?」とも併せて、この「コロナの時代」にこそ読んでおきたい。私たちははるか昔から、膨大な数の細菌やウイルスとともに生き、それによって進化の荒波を乗り越えてきたのである

【2511冊目】斉須政雄『調理場という戦場 「コート・ドール」斉須政雄の仕事論』

 

 

 

「毎日やっている習慣を、他人はその人の人格として認めてくれる」(p.37)

 

どんな道であれ、その道で「ホンモノ」となった人の言葉は、他のすべての道に通じるものである。野球選手でも指揮者でも、大工でも営業マンでも関係ない。私は本書の著者を知らないし、残念ながら「コート・ドール」にも行ったことはないが、著者は「ホンモノ」だと感じる。ひとつひとつの言葉の奥行きというか、身体への響き方が違うのである。

 

「子どもが子どもらしく過ごす時代を必要としているように、見習いは見習いの立場にいる時に、徐々に自分の目指す技術や夢について思いめぐらすことを必要としているのではないでしょうか」(p.62)

 


大工の小川三夫はこれを、最初のうちはただひたすらに浸ることが必要だ、と言っていた。テレビもラジオも、今で言えばスマホもパソコンもいらないのだ。今はどこもかしこも「即戦力」ばかりを求めすぎている。

 

「ある程度の実力がつくまでは無傷でいないと、思いきり才能を開花するところに行き着かないものです」(p.207)

 

これも見習い時代の重要性に通じる指摘。厳しくすればよいと思っているパワハラ上司に聞かせてやりたい。誰かがこういうことを率先して引き受けていかないと、社会に人を育てる場所がなくなってしまう。

 

「経験上、優れた人が他人を判断する時に目を留めるところは「ひとつひとつのことをきちんと処理しているかどうか」なのではないかと思うのです」(p.75)

 


立派なことばかり言っていても、雑用ができない奴はダメだ。コート・ドールでは、新人にはまず掃除と片付けをさせるという。そこで見極めをつけているのだろう。自治体職員でも、机の上が乱雑だったり、コピーがちゃんと取れないのに仕事ができる奴はいない。

 

「調整したほうがいいところを、マニュアルから外れて過不足なく補えるのが、わかっている人なんですね」(p.215-6)

 


我々の仕事で言えば、いわゆる「融通が効かない公務員」ではダメということだ。もちろん法令違反はできないが、許される範囲内でいかに解釈や運用を工夫するか。そこに力のある職員とそうでない職員の差が出てくる。

 

「ふつうにしているけどやる時はやるというのが、すごい人なんじゃないかなぁと感じます。「ふつう」って、無味無臭で透明人間なんですよ」(p.127)

 


こういう人が上司だと理想的。そういう人はおそらく、普段から自分の中に「溜め」があるのだろう。だから必要な時は一挙に加速できるのだ。

 

「社会的な立場が上がれば上がるほどプライドを軽くしていないと、その下で働く人たちが酸欠状態になってしまいます。上になったら、もう、「いるんだかいないんだか、わからないね」というぐらいの風通しのいい状態を奨励したほうが、健康な雰囲気の職場になるのではないでしょうか」(p.175)

 


これもさっきの引用と合わせ技で大事な指摘。どうしてチマタのビジネス書は、リーダーにやたら「存在感」を求めたがるんだろう。

 

「見る。聞く。嗅ぐ。動く。身体の中まで入り込んだ時に、初めて、言葉や手法は発露するのです」(p.272)

 


私の場合、これまでの経験の中で、実は読書から得たものはだいたい2割くらい。他のほとんどは現場の実践の中で、文字通り身体に染み込ませるようにして会得したものだ。「知る」と「わかる」の間には、天と地の差がある。日々の重厚な経験を身体に取り込むことこそが、ホンモノの学びにつながってくる。だからこそ日々の仕事は大切なのである。

 

 

【2510冊目】井上ひさし『十二人の手紙』

 

十二人の手紙 (中公文庫)

十二人の手紙 (中公文庫)

 

 

 

11の書簡形式の短編が、これも書簡による「プロローグ」と「エピローグ」に挟まれている。個々の短編は独立しているが、エピローグで思わぬつながりを見せ、同時にプロローグの「回収」にもなっている。

 

いやはや、なんとも凝った小説だ。書簡形式の小説自体は『若きウェルテルの悩み』『あしながおじさん』『吸血鬼ドラキュラ』など名作も多く、決してめずらしいものではない。とはいえ、前後も含めて13作をすべて違ったスタイルの短編として仕上げ、それぞれに仕掛けをほどこし、しかもそれが全部「小説」として上出来であるとなると、これはやはりタダゴトではないのである。

 

例を挙げると、冒頭のプロローグ「悪魔」は一人の女性が何人かに送った手紙で、いわば女性の一人称視点。だからこそ描ける一方的な想いとその破綻が痛ましい。次の「葬送歌」は作家に向けた学生の手紙だが、なんとその中に創作小説が含まれ、しかも作家とのやり取りの末に思いがけないオチをつける。「赤い手」はなんと「出生届」に始まり「転入届」「婚姻届」など公式な書類のみで大半が構成された驚くべき作品。われわれ自治体職員も、一通の戸籍謄本(特に「改製原戸籍」)などからその人の人生を読み取ることはあるが、まさか書類を連ねてその中にドラマを描き出すとは。痛切なラスト(最後だけを手紙で締めくくっているのが心憎い)も含め、本書随一の傑作であろう。

 

さらに続ける。「隣からの声」は以前見た映画『ギルティ』を思わせるどんでん返し。「桃」は仕掛けはそれほどではないが、小説としての味わいが深く印象的。「シンデレラの死」はある意味もっとも痛ましく、余韻の深い作品だ。「玉の輿」はなんと13通の手紙のうち11通が「手紙の書き方」のような本からの引用という驚くべきオチに仰天する。定型文というと無個性でつまらないものと思われがちだが、いやいや、名手にかかれば定型文だけでドラマを作れるのである。

 

「里親」は鮮やかなトリックに気持ちがいいほど騙された。意外とこのトリック、前代未聞ではないか。エピローグの「人質」はまさに大団円という感じ。登場人物の「その後」を見て、どんな人だったかな、と二度読みする楽しみが生まれる。まあそんなわけで、これは書簡小説のヴィルトゥオーゾというべき一冊。極上の名人芸を堪能されたい。

【2509冊目】樋口直美『誤作動する脳』

 

誤作動する脳 (シリーズ ケアをひらく)

誤作動する脳 (シリーズ ケアをひらく)

  • 作者:樋口 直美
  • 発売日: 2020/03/02
  • メディア: 単行本
 

 


最近こういった本が増えてきた。こういった本、というのは、病気や障害の当事者みずからが、その体験や思いを語る本、ということだ。高機能自閉症統合失調症高次脳機能障害アルツハイマー認知症などの当事者が、すでに見事な「現場報告」をしてくださっているが、本書はそれに続く一冊。「レビー小体型認知症」の当事者による、本人にしか知り得ない貴重な証言となっている。

 

そもそも「アルツハイマー」は知っていても「レビー」なんて聞いたことがない、という方が大多数だろう。福祉や介護に携わっている方であれば「幻視などを伴う認知症」であるということくらいは知っているかもしれない。だが、その症状がどのようなものか、具体的に知っている人は少ないのではないか。少なくとも私は、本書を読んで初めて、この病気について今まで何もわかっていなかったことに気付かされた。

 

例えば、発達障害の方に見られるような感覚過敏があること。匂いがわからなくなる一方、幻臭があること。冷蔵庫の扉を閉めたとたんに中にあるもののことをすっかり忘れてしまうほどの記憶障害。時間の感覚もなくなり、「来週」「来月」と言われてもどれくらい先のことかがイメージできないこと・・・

 

著者はただひたすら「困っている」だけではない。いろいろ工夫する。とはいえ、できないことが「できる」ようになるわけではないのだから、「できない」ことを別の「できる」に置き換えていくしかない。家族の予定を忘れてしまうのなら、全部カレンダーに書いてもらう。遠出する時は「持ち物チェックリスト」を作っておく。コンロの火を消すタイミングも洗濯する時もタイマーをかけておく。忘れてはいけないことは、最初から思い出せないものとしてメモを残す・・・

 

もちろん、これらは多かれ少なかれ、誰もがやっていることである。つまりは「誰だって、できないこと、失敗することがある」ということでもある。すべて完璧な人もいなければ、まったく何もできない人もいない。ただ、何ができるか、何ができないかは人によって違う、というだけの話なのだ。だから著者の工夫や行動は、私たちすべてにとって他人事ではない。

 

もうひとつ。著者はレビー小体型認知症の診断を受ける前、6年にわたりうつ病と「誤診され、抗うつ薬抗不安薬の副作用に苦しみ続けてきたという。本書の第6章は、薬を飲めば飲むほど状態が悪化する、地獄のような日々の記録となっていて、読んでいて胸が痛くなる。誤診の恐ろしさが身に沁みてわかる、医療関係者必読の章である。

【本以外】映画『コリーニ事件』を観てきました

   

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久々の映画リポート。というか、そもそも映画館で映画を観ること自体が久しぶり。これまで当たり前にやっていたことのありがたみを感じる。客と客の間に空席を2つずつという「コロナ対応モード」は、映画館の収益上のダメージは大きいだろうが、観る側としてはむしろ快適。隣でいびきをかいたり、ビニール袋をガサガサさせてお菓子を食べながら映画を観るオジサン(これ、どちらも体験済みです)と隣り合わなくて済むからね。

 

さて、本作はドイツの弁護士作家フェルディナンド・フォン・シーラッハの長編小説が原作となっている。原作もだいぶ前に読んでいたが、一度さらっと読んだだけにも関わらず、けっこう細部まで覚えていたことに驚いた。それほどに強烈で、忘れがたい読書体験だったのだ(この「読書ノート」にも書いたと思っていたが、過去記事に出てこないのでどうやら勘違いだったらしい)。

 

ホテルのスイートルームでハンス・マイヤーという会社社長が射殺される。犯人のコリーニはすぐに自首するが、取り調べでは黙秘し、国選弁護人となったライネンにも何も話さない。この新米弁護士ライネンが本作の主人公である。

 

弁護を引き受けた後にマイヤーが自分の親友の祖父であり、自分も世話になった人だと気付くライネン。その状況で被疑者の弁護を引き受けるのは弁護士的にどうなんだろうと思うが、作者のシーラッハも弁護士であるから、まあ、これもありうることなのだろう。黙するコリーニに手を焼くライネンだが、「お父上は元気かね?」という、コリーニのふと漏らした言葉をヒントに、ライネンはコリーニの、そしてマイヤーの過去に迫っていく。そこに見えてきた、二人の驚くべきつながりとは・・・

 

このあたりですでにネタバレになりそうなのだが、本作のキモはこの先にある。なぜコリーニはマイヤーを殺さなければならなかったのか? そこには、ドイツのもっているある「法律」の問題があったのだ。ここで、物語全体に恐ろしい逆転が起きる。裁判とは、「国家」が「個人」を裁く場である。だが、この法律の存在が明らかになった瞬間、この裁判は「国家」そのものを裁く場になってしまうのだ。

 

未読であってもカンの良い方なら気付くだろうが、本作はドイツの歴史を問う物語である。そして同時に、ドイツの「現在」を鋭く問う作品でもあるのである。過去は過去で完結しない。だからこそ、コリーニはマイヤーを殺すことで、過去を現在によみがえらせることを強いられてしまったのだ。

 

本作に勝者はいない。コリーニも、ライネンも、裁判官も、検察官も、誰もが敗北し、打ちひしがれるようになり、そして最後の最後、思いがけない出来事によって、突然に幕がおろされるのだ。

 

やるせない結末。だが、他にどんな結末があり得たというのだろうか。わずかな救いは、シーラッハの作品がきっかけとなり、ドイツ連邦法務省が「過去再検討委員会」を設置したということだ。物語の内部に救いを用意しないことで、現実の世に救いを導くという、とてつもない小説的偉業を、シーラッハは行ったことになる。

 

久々の映画として堪能するには、なんとも重く、せつない映画。だが、ドイツと似たような歴史的経緯をもつ日本においてこそ、これはしっかりと観られるべき作品である。

 


ドイツで記録的ヒット!『コリーニ事件』予告編