【2438冊目】『桜井哲夫詩集』
夏空を震わせて
白樺の幹に鳴く蝉に
おじぎ草がおじぎする包帯を巻いた指で
おじぎ草に触れると
おじぎ草がおじぎする指を奪った「らい」に
指のない手を合わせ
おじぎ草のようにおじぎした(「おじぎ草」)
「らい」とはハンセン病のことである。桜井哲夫は、本名を長峰利造という。1924年に青森県で生まれ、13歳でハンセン病を発症、17歳で群馬県草津にあるハンセン病療養所「栗生楽泉園」に入所した。療養所では、それまでの名を捨て、新たな名前を名乗ることになった。
おふくろさん あなたがくれた左の目は
酸性桿状菌が奪っていったよ
だけど残った右の目から
温かい涙が出ます(「目」)
29歳で視力を失った。両手の指も失い、何かを「読む」には点字に舌を這わせて読み取らなければならなかった。「舌読」という。硬い点字に舌を当てて読むうち、出血して口も点字も血だらけになった。だがそんな状況にあって、桜井哲夫の詩はなんと豊かで、ユーモラスで、そして温かいことか。
看護婦さんが封筒をあけた
手紙の間から紫の花びらが散った
手紙の文字は盲目の私には読めないけれど
紫の花びらを舌に乗せると
手紙を贈ってくれた人の優しさが読める
花の手紙は舌先でおどる
花の文字は何時までも忘れられない(「花便り」)
桜井哲夫は療養所内で結婚した。妻、真佐子の父は技師として、戦中の平壌でダム建設に関わっていた。父は真佐子に「あなたは侵略者の娘だよ」と言っていたようだ。のちに、桜井哲夫は自ら韓国に行った。「わたくしは侵略者」と言って謝罪するためだった。真佐子は出産のため、26歳で亡くなった。子の真理子もまた、6か月で亡くなった。
真理子が泣いています
狭い棚の上で
真理子は療養所夫婦の間に生まれたから
六ヶ月目に手術を受け
標本室の棚の上に置かれました
二十六歳で真理子の母は死にました(「真理子曼荼羅」)
木下晋に『祈りの心』という画集がある。そこに収められている桜井哲夫の鉛筆画を最初に見た時は、正直言ってギョッとした。だが、見ていくうちに、その姿がどこか神々しいものにすら見えてきたものだった。なんというか、イエスが人々の罪を背負って十字架にかけられたように、私たちの負うべき責めを桜井哲夫が負ってくれたのではないかと思えるような、そんな気分にさせられたのだ。
だがある意味で、戦後日本のハンセン病患者の方々は、日本社会の犠牲となって排斥され、施設に閉じこめられてきたのではないかと思う。「らい予防法」を制定し、放置してきたのは日本政府だが、彼らを差別し、排除してきたのはわたしたち一人ひとりなのだ。「らい予防法」廃止にあたって生み出した「しがまっこ溶けぬ」という詩を、最後に紹介しよう。ちなみに「しがまっこ」とは「氷」のことである。
津軽の分教場の傍らを流れる小川に
厚い 厚い しがまっこが張った
分教場の子供達はしがまっこの上に乗って遊んだ雪の降る朝 お袋が言った
『来年の春しがまっこが溶ける頃には 病気が良くなって帰ってこれる から』と療養所の寮舎の軒に
冬になると長い 長い しがまっこが下がった
しがまっこは 春になると音もなく溶けた
しがまっこが 溶けても帰れなかった治療棟の外科室で
赤く腫れた指に幾重にも包帯が巻かれた
包帯の巻かれた腕を胸に抱いて治療室を出る
治療棟の廊下で寮友が声を掛ける
『春になったら きっと良くなるよ』と
お袋が五十年前の雪の日に言った言葉が胸奥で疼く
しがまっこは まだ溶けない(「しがまっこ溶けぬ」)