【2323冊目】『ティク・ナット・ハンの般若心経』

 

ティク・ナット・ハンの般若心経

ティク・ナット・ハンの般若心経

 

 

法華経に興味、と言っておいていきなり般若心経というのもアレだが、これはたまたま以前読んだ時に書いた読書ノートのストックがあったから。でも、般若心経もまた、とても気になる、そしてたいへん大事なお経である。

多くの日本人にとって般若心経というと「葬式で坊さんが唱えているお経」くらいのイメージしかないのではないか。だが、これは本当にスゴイお経なのだ。仏教のエッセンスはほぼすべて、この短いテクストの中に含まれていると言っても過言ではない。

まあ、そうはいっても、いきなり「空」とか「色」とか言われても、なかなかとっつきづらいのは事実。特に「空」を「無」と捉えてしまうと、このお経はチンプンカンプンになってしまう。そこで本書の著者ティク・ナット・ハンは「空」を「無」ではなく「独立した実体ではない」と言い換える。

だから例えば「体とは空である」とは「体は存在しない」ということではなく「体は他のものと独立して存在しない」ということになる。どういうことだろうか。少し長くなるが、ティク・ナット・ハンの言葉を引いてみよう。

「あなた自身の体を深く観ていけば、その中にはあなたの両親と祖父母、すべての祖先、そして地球の生命の歴史がすべて入っているのがわかるでしょう。この体は、ふだんあなたが体とは思っていないような、体以外のすべてのものから作られた複合体です。そこには太陽と月と星、時間と空間も見てとれるでしょう。事実、この体を作り上げるために、宇宙全体がここに集まっているのです」(p.56-57)

 

 

こうしてみていくと、あの「輪廻」「前世」という思想も、従来のものとはまったく違う意味合いを帯びてくる。ティク・ナット・ハンは、これは「科学」であると断言する。

「私が飲む水は、かつて雲でした。私が口にする食べ物は、かつて太陽の光であり、雨であり、大地でした。まさに今この瞬間に、私は雲であり、川であり、空気なのですから、前世でも、雲や川や空気だったとわかるのです。そして私は石であり、水に含まれる鉱物成分でもありました。私は前世を信じるかどうかを問題にしているのではありません。それが地球の生命の歴史なのです」(p.71)

そうなのだ。ある宇宙物理学者が「人間は星のかけらでできている」と言ったのを思い出すが、まさにわれわれは、食べ物や飲み物を通して、いわば世界の構成物の一部を受け取っているのだ。それに、そもそものおおもととなった遺伝子は両親から受け継いでいる。「私」とは、かかる無数の要素が行き交う交差点上に、たまたま存在するだけのものなのだ。そして、これが仏教だとすれば、仏教とは宗教ではなく、思想であり、科学であったということになる。

もっとも、こうした「理屈」は分かっても、なかなかそのことを自分自身で感じ、呑み込み、会得することは難しい。ティク・ナット・ハン自身も、こうした考え方(「縁起」「インタービーイング」)は「スコップのようなもの」だという。「井戸を掘るにはスコップを使いますが、掘り終ったら、そのスコップは片付けねばなりません」(p.165)。知識としてこうした考え方を知るだけではなく、その中で「生きる」ことが必要なのだ。「真理は知識や概念の蓄積の中にではなく、ただ生きることの中にだけ存在しうることを、心にとめておきましょう」(同頁)

ちなみに、そうした生き方とはどのようなものかが示されているのが、後半の「ある刑務所での法話」である。これはティク・ナット・ハンがメリーランド刑務所で行った法話なのだが、「今を生きる」マインドフルネスに満ちた生き方とはどのようなものかがよくわかる。「エンゲージド・ブッディズム」(行動する仏教)を提唱する著者ならではの、人の生き方を大きく変える力を持った一冊だ。