自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【本以外】上野で松林図屏風をみてきました

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

さて、3が日の最終日、少し時間ができたので、上野に行ってまいりました。目当ては長谷川等伯「松林図屏風」ただ一点。日本絵画史上の最高峰だと思います。これが上野の東京国立博物館に収蔵されているのですが、1月2日から14日までの間にかぎり、実物が展示されるのです。しかも常設展なので620円で鑑賞できるという信じがたい幸福。比べるのもなんですが、フェルメール展の約4分の1ですよ。

 

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目当ての「国宝室」は少々混雑気味ですが、屏風自体が横に広いこともあり、わりとじっくり鑑賞することができます。びっくりしたのは撮影OKということ。もっとも、これは松林図屏風だけではなく、常設展示作品のほとんどが撮影できるようなのです。ただ、私はよほどのことがなければこういうところで撮影することはしないので、肉眼に刻み付けるように鑑賞。国宝室だけで30分くらいはいたでしょうか。ちなみに、昨今のなんでもかんでも写真や動画に撮ろうとする風潮については、個人的には強い危機感をもっているのですが、この話は長くなるのでまたいずれ。

 

さて、「松林図屏風」です。リアルで見るのは2回目ですが、今回は間近によって見たり、遠目で全体を遠望したりと、いろんなスコープで鑑賞することができました。一見何も描かれていないように見える部分にかすかな樹影があったり、逆に樹の幹がつながっているように見えていたところが、実は根本の部分と上の部分の間が何も書かれていなかったりと、図版だけではなかなか分からない部分もよくわかります。墨の濃淡も、手前の存在感のある松から徐々に薄く霞んでいくところが実に巧妙に処理されているのです。

 

その一方、やはり圧倒的な存在感をもっているのは、何も描かれていない広大な部分のこと。フェルメールは「光」を描いた画家と言われますが、その伝でいうなら等伯は、「無」を描いたと言えるのかもしれません。それは靄や霞なのかもしれないし、まったくのnothingではないと思いますが、それでもそのように表現する以外の言葉がみつからない。「無」が奥行きと広がりをもち、確かな空間として目の前にあることの、なんというか呑み込まれそうになる恐ろしさのようなものを感じました。

 

この博物館の常設展示は、それだけでしっかり見ると半日かかるボリュームがあるので、他はさっと流すつもり・・・だったのですが、やはり「書」のパートと「茶の湯」のパート、そして「日本刀」の抜身の美しさには、ついつい足を止めてしまいました。こちらも国宝の法華経(結経)の文字の端正な美しさ。この世の物とは思えない「馬蝗絆」の完成度や「灰被天目」の深淵等々、やはり圧巻です。浮世絵のパートは北斎富嶽三十六景の一作を含め展示品がお正月モードになっていてびっくり。トーハク(等伯じゃなく、東博ね)もやるものです。

 

今までになく外国人のお客さんも多かったように思いますが、みなさん、非常に熱心に一つ一つの展示品に見入っていらっしゃいました。むしろろくに作品を観もしないで、スマホでパシャパシャ撮影して通り過ぎていくのは、日本人のほうが多いような・・・。まあ、国籍はあまり関係ないと思いますが、撮影OKならOKで、画面のちらつきや赤いライトを含め、最低限周りへの配慮はしてほしいものです。