【2283冊目】ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

イスラエルの鬼才ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』に続き、とんでもない本を書いた。『サピエンス全史』は名著だが、この『ホモ・デウス』は、とんでもない奇書か、人類の未来の予言書かのどちらかだろう。

古代から中世にかけての時代が「神中心」であったとすれば、近代から現代にかけては「人間中心」、著者の言葉でいえば人間至上主義の時代であった。人間の理性、感覚、感情がもっとも重要なものであり、個人の才能から花開いた芸術や知性が評価された。人々は自らの意思に基づき投票し、選ばれた政治家が政策を決定した。自由主義も民主主義も、こうした人間至上主義が基盤になっている。

ところが今や、とんでもないことが進行しつつある。膨大なデータに基づき、巨大なアルゴリズムが人間の意思決定を先取りするようになっているのだ。すでにわれわれは、目的地までの道順、今日の夕食のレシピ、今度のデートで観る映画などを、意識しているかはともかくとして、グーグルのアルゴリズムに沿って選んでいる。そして、これからは、投票すべき候補者や結婚すべき相手などの事柄も、自分で決めるよりAIに決めてもらう時代が来るかもしれない。少なくともそのほうが、自分にとって妥当な決定ができるようになるからだ。

とんでもない、と思われるかもしれない。人間は意志決定をコンピューターに委ねることはない、人間には自由意志というものがあり、感情というものがあるのだから、と。だが、そもそも人間はそれほど自由な存在なのだろうか。著者は、人間を含めた生命はアルゴリズムにすぎず、感情もまた、その一部にすぎないという。以下の引用はヒヒに関する説明だが、人間にも同じことが言える。

「じつは、ヒヒの体全体が計算機なのだ。私たちが感覚や情動と呼ぶものは、じつはアルゴリズムにほかならない。ヒヒは空腹を感じ、ライオンを目にすると恐れと震えを感じ、バナナを見ると唾が湧いてくるのを感じる。ヒヒは一瞬のうちに感覚や情動や欲望がどっと湧き起こるのを経験するが、これこそヒヒの計算の過程以外の何ものでもない」(上巻p.110)

したがって、人間のもつアルゴリズムより優秀なアルゴリズムが出現した場合、人間至上主義の前提はもろくも崩れ去る。しかもそれは、グーグルやフェイスブックなどの膨大なデータを基にしている。例えば、あなたがある一つの決定を行うとなると、グーグルは自分が送り、受け取ったすべてのメール、「いいね」を押したすべてのフェイスブックの記事、検索したすべてのワード等の膨大なデータを参照し、複数の選択肢から最善の決定を導き出すのである。

このように、データに基づく人工知能の高度な判断に人間が従属することを、著者は「データ至上主義」と呼ぶ。人間は自由を奪われ、その代わりに「適切な決定」と「快適な生活」を手に入れる。著者はこのことを「人間は力と引き替えに意味を放棄することに同意する」(下巻p.7)契約書にサインする、と表現する。別の箇所では「私たちは何百年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが将来は、特大のアリになるかもしれない」(下巻p.204)とも言うのである。

これは科学技術がもたらす必然なのか、本当にこれに抗する術はないのか。本書は、そんな焦りに満ちた問いかけをぶつけたくなる一冊だ。だが一方で、民主主義がナチスを生み、トランプを生んだという現実を考えると、人工知能が政治家を選び、政治家もまた人工知能に基づいて政策決定を行う、そんな社会も、それはそれで魅力的かもしれない、と思ってしまう自分がいる。ひょっとするとこれは、プラトンの提唱した哲人王に近い存在を、初めて人類が生み出すということなのかもしれないではないか?