自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2259冊目】鈴木大拙『禅』

 

禅 (ちくま文庫)

禅 (ちくま文庫)

 

 

こういう本を「言葉」によって紹介することに矛盾を感じる。この本が言っているのは「言葉だけ、頭だけの理解では禅を体得したとは言えない」ということなのだから。

月をさす指がある。指の先を見れば月がある。言葉がこの指だとすれば、月にあたるものを会得するのが禅である。だがそうはいっても、言葉を示されてなお、その言葉の彼方を捉えることはむずかしい。

そこで禅はユニークな方法を用いる。言葉をもって言葉を超えるような方法だ。例えば、次の問答はどうだろうか。

僧「一切の仏、および祖師の智慧を越える一句は何でしょうか」

師、一本の杖を突き出して「わしはこれを杖と呼ぶ。おまえたちは何と呼ぶか」

僧、答えられず。

師「一切の仏、および祖師の智慧を越える一句―僧よ、これがおまえの問いではなかったか」

 

 

では次に、もっと短いものを。一部改変してあります。

師「もしおまえたちが杖を持っているならば、わしはおまえたちに杖を与えよう。もし持っていなければ、わしはおまえたちからそれを取り上げる」

次に、少しわかりやすい(?)ものを。

僧「曹渓の源からしたたり落ちる一滴の水とは何ですか」

師「それは、曹渓の源からしたたり落ちる一滴の水である」

 

 

ここで何が行われているか、おわかりだろうか。問いを自分から離さない(別物にしない)こと、問いそのものではなく、問いが発してくるそのところを目掛けて言葉を投げ込んでくること。そしてこれが、言葉をもって言葉にならない体験の領域に到達するための、おそらくは唯一無二の方法なのだ(多少なりとも似たものがあるとすれば、本書でも紹介されているとおり、俳句だろうか)。

知ることを超える。知りたいという欲を超え、知っているという満足(高慢)を超える。問いが自己そのものになるということは、世界のすべてが自己そのものとなり、現在という瞬間だけが生となり、一生モノの心の平穏と世界の真理を体得するということ。そのためのアクロバティックで意想外の出入り口が、おそらくは禅というものなのだ。