自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2254冊目】林芙美子『放浪記』

 

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

 

 

「私の詩を面白おかしく読まれてはたまらない。ダダイズムの詩と人はいう。私の詩がダダイズムの詩であってたまるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! ただ、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ」(p446)

自身の詩について書いた文章だが、私には、この『放浪記』そのものについての文章とも思えた。「私は私という人間から煙を噴いているのです」! まさに脳天から立ち上る噴煙のような、あるいは噴石のような文章の砲列。それこそがこの『放浪記』なのである。

本書は林芙美子の若き日の日記である。正確には、オリジナルの日記をもとに、かなりマイルドに変えたものであるらしい(本書の「解説」を読むと、放送禁止用語乱発のオリジナルの文章がチラ見できる)。だがそれでもやはり、これが林芙美子にしか書けない「頭のてっぺんから噴いた煙」のような作品であることには変わりない。

文章にリズムがある。躍動している。叩きつけ、跳ね回り、それでいて所々の描写が冴えていて、文章がぴしりと締まる。大正期の文章とは思えない……というか、現代でもこんな文章が書けるエッセイストはひとりとしていない。圧倒的な貧窮の中で苦しみ、それでも背筋を張って人生を闊歩する著者の、なんと凛々しく格好いいことか。どのページにも、そんな才気と矜持、必死と決死の切実が唸っている。どれどれ、試しにパラパラとページをめくってみよう。

「あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない無精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んでそこら辺に投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真二ツになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きていることもまんざらではない」(p.50)

 

「ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた」(p.267)

 

「ああ私が生きてゆくには、カフエーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、何も彼もからっぽなのだ。階下の人たちが風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤い給え。あざけり給えかし」(p.327-8)