自治体職員の読書ノート

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【2105冊目】山岸俊男『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』

 

 



今タイトルを入力していて、なんでこんなところに読点が打ってあるのか気になった。ていうか、そもそもこのタイトルに読点って必要か?

などというどうでもよいところにケチをつけたくなるくらい、本書は「ケチのつけようがない」面白い一冊だった。目からウロコ、などという月並みな表現は使いたくないのだが、読み終わると「日本社会」の見え方が変わる。保証する。

第3章の冒頭、2つの設問がある。実際はもっと問題文が長いのだが、一言でいうとこういう問題だ。

第1問 あなたの周りにいる人(日本人)は、集団主義的か、個人主義的か?
第2問 あなた自身は、集団主義的か、個人主義的か?

 
あなただったら、どう答えるだろうか。実はこの設問への答えを集計した結果は、こうだった。第1問の答えで多かったのは「集団主義的」、つまり日本人全般は「集団主義的」だとみんな思っている。ところが第2問の答えになると「個人主義的」が増えるのだ。これをまとめると「日本人は、周囲の人たちのことは〈集団主義的〉だと思っているが、自分だけは〈個人主義的〉だと思っている集団である」ことが、この設問からわかったのである。

ここから、こういう思考パターンが予測できる。「自分は、実は個人主義的に行動したい。でも、そういう行動をとると、集団主義的な考え方の周囲によく思われないから、集団主義的に見える行動をしているのだ」

多くの人がこういう考え方をするようになると、人々の行動はどんどん集団主義的になっていく。そして、それを見た「自分」は、「周囲は集団主義的」という思い込みをより強固にしてしまうのだ。

もうひとつ。これは日米比較。一般に、アメリカ人は個人主義的で、日本人は集団主義的と思われている。では「たいていの人は信頼できると思いますか?」という質問をアメリカ人と日本人にしてみたら、どうなるか。「アメリカ人は相手を信用できず、小さな文字でびっしり書かれた契約書を取り交わさなければ契約もできない。日本人なら、いったん相手を信用すれば口約束でも大丈夫。日本人はアメリカ人より協調の精神があるんだから」とか、思ってはいないだろうか。

ここまで書けば大方の人は予想できただろう。実際の結果は「日本人よりアメリカ人の方が「たいていの人は信用できる」と答えた」ということになったのだ。いわば日本は「人を見たら泥棒と思え」と思う人が多いのである。

知らない人を、アメリカ人は「とりあえず信頼」し、日本人は「まずは疑いの目で見る」。なぜこうなったのか、というと、そこが著者のいう「信頼社会」と「安心社会」の違いなのだ。

信頼社会では、裏切られる可能性はあるにせよ、相手をいったん信頼するところから話がスタートする。もっとも、信頼は盲目的に行われるわけではない。一般的信頼が高い人は、実は相手が信頼できるかどうかを実にシビアに、かつ的確に観察しているという。いわば「信頼リテラシー」のようなものがある。ということになるだろうか。

一方、少し前までの日本のような集団主義的社会はどうだろうか。集団のメンバーは、お互いがお互いを信頼しているだろうか。一見、そういうふうに見えるかもしれないが、著者はそれは違うと言う。集団主義社会を維持しているのは、実は「メンバーがおたがいを監視し、何かあったときに制裁を加えるメカニズム」なのだ。

だいたい、同じ村や同じ部署の人間だったら、そもそも「信頼できるかどうか」を考える必要さえない。悪さをしたりウソをついても、狭い村の中ではたちどころにバレてしまうからだ。これを著者は「社会の仕組みそのものが人々に「安心」を提供することによって、いちいち他人を「信頼」しなくてもいいようにしてくれる社会」であると言う。

いささか息苦しい感じもするが、それでもこうした「集団主義社会」が維持できているうちはよかった。だが、御存じのとおり、日本はもはや「集団主義社会」ではいられなくなりつつある。都市化が進むとお互いの匿名性が高まり、会社はグローバル化の中で欧米型の組織や論理を導入せざるをえなくなるからだ。

では、日本が明日から欧米型の「信頼社会」に生まれ変われるかと言えば、もちろんそんなことが簡単にできるワケがない。著者は、現代の日本がこうした「信頼社会」への過渡期であって、かつての集団主義社会の「安心」が失われつつあるのは、むしろ当然であると考える。企業の不祥事もマスコミのバッシングも政治の汚職も官僚のモラルハザードも、つまりは「信頼社会」のための生みの苦しみである、ということなのだ。たぶん。

だが、それでも社会は徐々に変わりつつある。著者は「ネットオークション」の例を挙げる。村社会どころか相手の顔も見えない関係性の中で、確かに悪さを働く人もいるが、ネットオークションの仕組み自体はちゃんと機能している。これはどういうことなのか。

ポイントになっていると思われるのが「評判の力」だ。ネット上では、悪い評判がたってもすぐ名前を変えて再登場できるため、批判は役に立たない。著者が注目するのが「高評価」の役割だ。高い評価を積み上げるには、名前を変えても何の意味もない。地道に信頼獲得を目指す必要がある。だが、だからこそ「高評価」であることは信頼の指標となるのである。

こうした取り組みは、ネット上特有の事情もあるけれど、今の日本社会を変えていく一つのトリガーになる。「見知らぬ他人が「泥棒」ではないかと過度に警戒してビクビク生きていくよりも、他人のいい評判に目を向け、そうした評判を確立した人たちと積極的に手を組んでいくほうが、信頼社会を構築するうえで重要なのではないか」と、本書の終わり近くで著者は語っている。そのためには、単なる「レッセ・フェール」では足りない。評価を行い、共有するためのシステムが必要だ。思えばNHKの朝ドラにもなっていた『暮らしの手帖』は、ネットとは違うが、「評判」を提供するための雑誌であったといえるかもしれない。