自治体職員の読書ノート

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【2075冊目】上野千鶴子『ケアの社会学』

 

ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ

ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ

 

 
書くべきこと、紹介したいことはたくさんあるのだが、今日はなんだかそういう気になれない。この本を単体で「まとめる」よりむしろ、この本に書かれていたことを分解して、滋養にして、それぞれのパーツを他のいろいろなコトと組み合わせていきたい。なぜかこの本を読んで、そう感じた。

感想でもなく、書評でもなく、要約でもなく、そしてそのすべてであるもの。この「読書ノート」とはそういうものだった。だが、一冊を読んで一冊について書くことは、その本のまわりに仕切りをめぐらせる作業になってしまい、本と本をつなぐ有機的関連性みたいなものが損なわれるというマイナス面もあるのである。だからといってすべての関連本、関連情報と結びつけながら書くというのも、このペースだといささかしんどい。

本書についていえば、この本は著者の先行著作である『家父長制と資本制』の後継である。そして、以前ここで紹介した中西正司との共著『当事者主権』ともつながっている。上野千鶴子という思想家の多様な思考の、ひとつの結節点のようになっている一冊だ。

例えば、ケアの値段はなぜ安く、ケアに携わる人々の給料はなぜあんなに低いのか。著者のミもフタもない言い方に倣えば、それは「女の仕事」だからなのだ。もっと言えば、もともと家庭の中で「嫁」や「娘」が担ってきた介護が外部化されたのが介護保険であって、「タダで供給されてきたもの」に値段をつけたのだから、高くなりようがないというワケなのだ。

ジェーン・ルイスはケア労働について『「価値が低い、報われない労働を女性がしている」というより「女性がしている労働」だから「価値が低い」のだ』と言っているという。さらに言えばこの「ケア労働の安さ」への関心自体、『家父長制と資本制』の「なぜ人間の生命を産み育て、その死をみとるという労働(再生産労働)が、その他のすべての労働の下位におかれるのか」という重大な問いかけに結びついている、と著者は言う。

あるいは、著者は次のように「ケアの権利」を掲げてみせる。

「ケアする権利」

「ケアすることを強制されない権利」

「ケアされる権利」

「ケアされることを強制されない権利」

である。このあたりは本書のキーワードのひとつである「当事者主権」と密接につながっている。

ケアは「相互性」をもっている。だがこのことは、ケアする側とケアされる側が(現実問題として)対等であることを意味しない。なぜなら、ケアする側はいつでも「やめる」ことができるのに対して、ケアされる側は、多くの場合「ケアされないこと」を選ぶ余地がないからだ(生命維持に直結するケアはその一例)。この非対称性に「見ないフリ」をしたまま「対等性」を強調することは、欺瞞にすぎない。では、非対称性を丸呑みした上で対等性を追い求めるとどうなるか。その困難な実践例のひとつが、やはり以前紹介した『こんな夜更けにバナナかよ』という本ではないかと思うのだが、どうだろうか。

他にも本書には「協セクター」(「官」でも「民」でも「私」でもない領域)への期待と課題、秋田県鷹巣市の先進的事例や富山市の「このゆびとーまれ」の実践、さらには生協による福祉の「経営」の実態について多くのページを割いて詳細に述べており、大変に読み応えがある。日本の福祉の実像を行政、地域、団体等の眼から多面的に再構築した労作だ。本書の最後になって示される「次世代福祉社会の構想」もおもしろく、納得できる(ちゃんとしたものにするためには、財政面の課題をクリアして「高い方にあわせる」ようにしなければならないが)。

一方に家族、一方に地域社会、一方に行政、一方に市場原理。四面楚歌とさえ思える状況をしっかり見つめ、一筋の解決策を示した一冊。未来の福祉社会を憂える人なら、読んでおいて損はない。

 

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

 

 

 

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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