自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2070冊目】今野真二『振仮名の歴史』

 

振仮名の歴史 (集英社新書)

振仮名の歴史 (集英社新書)

 

 
日本語以外に、振仮名のあるコトバってあるんだろうか。少なくとも私は見たことがない。

そもそも振仮名は「読み」を示すことからはじまった。表意文字である中国語を読むためのガイドだったのだ。興味深いことに、『日本書紀』にはすでに「漂着」という文字に対して「ヨレリ」という読みがつけられている。外国語である中国語は、ここでは「ヨレリ」という日本語に「翻訳」されているのである。もちろん、一方ではいわゆる音読み(漂着なら「ヒョウチャク」)の振仮名がつけられている箇所もある。

そうなのだ。振仮名はそもそも、ひとつのコトバ(中国語)に対する日本語の読みの多様性を支えているのである。だが、それだけではない。実はひとつの日本語に対してもまた、さまざまな中国語(漢字)が対応している。つまり「言葉」と「振仮名」は、多対多の関係にあるのである。

本書に挙げられている例でいうと、「カヨフ」(かよう)という和訓に対応する漢字には「逗」「通」「返」「潜」「望」「憚」「穿」「暢」などがあり、一方で「達」という漢字に対応する和訓には「イタル」「コホス」「トホル」「トホス」「カナフ」「ヤル」「タツ」「ミチ」「ツカハス」「ツフサニ」「ナラス」「ユク」「カヨハス」「サトル」がある。ものすごい数だ。ちなみにこれらは、12~13世紀に成立したとされる『類聚名義抄』なる古辞書に書かれているものだという。

ちなみに現代の「常用漢字表」では、「達」には「タツ」という音が充てられているだけで、訓読みはひとつもない。かつての日本語がもっていた多様性がどれほど失われてしまったか、驚くほどである。しかもこれは本当に最近のことで、明治時代にはまだまだ、漢字と読みの多様多彩な関係が保たれていた。

さて、振仮名にこうした「読み」の機能があることは誰もが知っているが、著者はさらに、室町時代あたりからここに「表現としての振仮名」が加わったと説く。単に読みを示すだけではなく、振仮名自体がひとつの表現になっていくのである。

これが本格的に開花したのが江戸時代。ここでは振仮名が漢字の右側だけでなく左側にもつけられ、一方が読みを、もう一方が「語義の補足説明」を担うようになった。例えば『南総里見八犬伝』では「看病」に「みとり」「カンビョウ」の、「君命」に「くんめい」「オオセ」の振仮名が、同時に振られていたという。

読みを示すという最低限の機能からみれば明らかに過剰な振仮名の使用が、ここにはみられる。これを著者は、振仮名を「表現」の技巧、方法(マニエール)として追究した結果であって「振仮名のマニエリスム」であるという。その豊富な例をたっぷり取り上げた第三章は、本書の白眉といえるだろう。

では、こうした振仮名の「伝統」はすっかり廃れてしまったのか。常用漢字表の状況をみれば、確かにそう言えるかもしれない。だが一方では、たとえばサザンオールスターズの歌詞が、新たな「振仮名のマニエリスム」を展開していることを著者は示している。「合図」に「サイン」、「匂艶」に「にじいろ」という振仮名をつけるのもスゴイが、「トルバドール」に「troubadours」と振るに至っては、何をかいわんや。だがその逆もあって、例えば高野文子の『絶対安全剃刀』では「soda」に「ソーダ」という振仮名がつけられているという。

読みという機能を離れて、それ自体がひとつの表現手段となった振仮名の歴史を、本書は実にさまざまな例を挙げて解き明かしていく。そこからみえてくるのは、日本語という言葉そのものが辿ってきた歴史と、その懐の深さであった。山本有三は「振仮名廃止論」を唱えたというが、振仮名があるからこそ、日本語はその力を保ち続けることができたというべきなのかもしれない。