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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【2030冊目】児玉真美『アシュリー事件』

福祉・教育・医療

 

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

 

 
2004年、米国シアトル。重症重複障害のある6歳の女の子に対して「子宮の摘出」「乳房芽の摘出」「ホルモン大量投与による身長抑制」が行われた。女の子の名前は、アシュリー。

本書は、この「アシュリー事件」をめぐって巻き起こった議論を丁寧に追跡し、なぜこのようなことが行われたのかを考える一冊だ。扱われているのはアメリカの事件だが、著者は日本人の、やはり重度重複障害のある子をもつ親である。

そもそも、アシュリーの親はなぜこのような手段を取ったのか。実は、両親は自らこの件に関するブログを開設し、明確に理由を説明している。それによると、主な目的は「アシュリーのQOLを改善すること」。具体的には、身長抑制の理由は「体が小さく軽いことによって、家族のイベントや行事にも参加させやすくなる。家族が抱え上げて移動させることができるので、身体を動かしてもらえるし、常に家族と共にいることができる」など。子宮摘出の理由は「生理の不快回避」「重症障害のあるアシュリーに子宮は無用」。乳房芽摘出は乳房の発達を抑えることになるが「授乳することがないので、アシュリーに発達した乳房は不要だし、あっても不快の元でしかない」「車椅子などに座る際にベルトを締めるのにも、大きな胸は邪魔になる」等々、である。

これを読んで、みなさんはどう感じるだろうか。なるほど、それも一理ある、と感じるか。本書の著者のように「不快と嫌悪」を覚えるか。ちなみに注意すべきは、アシュリーの親は自らの介護負担を減らすためにこうしたことをやっているのではない、ということだ。彼らはあくまで「アシュリー自身のため」にやっているのである。

こうなってくると、これはもはや医療や福祉ではなく、倫理の問題である。「その人にとって良いこと」だと思うことを(実際に「良い」かどうかはさておいて)、その人の意思を確認せずに(あるいは、意思がそもそも確認できないので)行ってしまってよいか、ということだ。本書がアシュリー事件を考えるためのよすがとして挙げているさまざまな「事件」や制度は、すべてこの点に関わってくる。

例えば、妊娠の理解なく性行為を繰り返す障害者への卵管結紮を求めたK.E.J判決。15歳の重症児ケイティ・ソープへの子宮摘出をめぐるケイティ・ソープ事件など。なかでも極限ともいえる事例が、14年間植物状態だったテリー・シャイボへの栄養と水分の供給を中止するよう夫が求めたシャイボ事件であろう。治療の可能性がなく、意識を取り戻す可能性もない場合に、生命維持行為を中断することは許されるか、という問題である。

これについては、さまざまな意見が紹介されているが、私は本書の最初のほうで登場したアン・コウィンの見解に尽きるのではないかと思う。こんな見解だ。

「その人の状態によって結果的な処遇が同じである必要はないが、その判断に適用される倫理判断の基準は一定でなければならない」

ところで、なぜ日本人である著者が海外の事件を取り上げて一冊の本を書いたのか。それはやはり、この「アシュリー事件」が、障害当事者やその親にとってきわめて衝撃的な出来事だったからだろう。

もっとも、アシュリー事件がもたらすインパクトの「中身」は、相手が障害当事者か、その親かによってかなり異なるものであると考えられる。実際に子宮を摘出され、身長の伸びを止められる障害当事者にとって、これはまぎれもなく権利の侵害であり、人間の尊厳の剥奪である。

だが、親にとってはどうか。著者のように「とんでもない」「許しがたい」と思う場合もあれば「共感する」「ウチの子にもやってほしい」などと考える親もいる。著者自身も「アシュリーの親がやったことに強い不快と嫌悪を感じる一方で、その気持ちが私には痛いほどわかる」と書いており、気持ちが文字通り引き裂かれていることがうかがえる。特に次の一節は、読んでいて胸が痛くなるほどだ。

「娘のためにずっと、多くの人や組織や、さらに形のない何かとも闘い続けてきたつもりだった。自分は誰よりも優秀な彼女のアドボケイトだと自認もしてきた。しかし、私はアシュリー事件によって、親と子の間、介護する者とされる者との間には本当は避けがたい利益の相反があり、権利の衝突があり、実はそこには支配-被支配の関係が潜んでいるという、あられもない事実を突き付けられてしまった。突きつけられてしまった以上、そこから目を逸らすことができない。娘の権利を侵害してきた自分、今もそうし続けている自分、有無を言わせず支配する者として娘の前に立つ自分――。そんな親の抑圧性や支配性に自覚的でありながら、なお娘を親として愛し続けようとすれば、いったいどうすればいいのだろう……。そこで私は言葉を失い、引き裂かれたまま、なすすべもなく立ちすくんでしまう」

 


著者は、本当にこの時点で初めてこのことに気付いたのかもしれないが、おそらくこうした「支配-被支配」の関係については、多くの親や関係者がどこか胸の奥で気づきながら、こっそり蓋をしているのではないかと思う。というか、こんなことをまともに直視してしまっては、果たして今後、どうやって娘を愛し、世話をし続けていくのだろうか。私としてはむしろ、そっちのほうが心配だ。著者とその娘、海さんのご多幸を、心からお祈りしたい。