自治体職員の読書ノート

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【2020冊目】井伏鱒二『荻窪風土記』

 

荻窪風土記 (新潮文庫)

荻窪風土記 (新潮文庫)

 

 



井伏鱒二荻窪に越してきたのは、昭和2年。関東大震災の数年後のことである。当時は「新宿郊外の中央沿線方面は三流作家、世田谷方面は左翼作家、大森方面は流行作家」が住むといわれていたらしい(今こんなことを書いたら怒られそうだが)。本書は、その頃の荻窪界隈の風景と生活を淡々と綴った一冊である。

個人的なことを書いておくと、私は荻窪あたりには住んでいたことがあり、土地勘もある。だからこそ、というべきか、本書で書かれている荻窪の風景には、驚かされることばかりだった。

今では住宅がびっしり建っているあたりが、当時は林や畑ばかりだったこと。主要産物は大根で、出荷するときは、大八車を押して夜中に出発し、淀橋や早稲田、京橋などへ歩いて行ったこと(帰りには人糞を入れた肥桶を積むこともあったとか)。震災前は品川の汽笛の音が荻窪まで聞こえてきたこと……。震災前の大正8年には、阿佐ヶ谷に駅を誘致しようと鉄道院に陳情に行ったら「あんな竹藪や杉林ばかりが茂って、狐や狸の住んでいるところに駅をつくるなんて、無理な話だ。狐や狸は電車に乗らないよ」と言われたという。

そんな「狐と狸の住む」ところが徐々に発展していく様子を描く一方、本書は著者自身の交友関係を記録している。「文学青年窶れ」した人々のスケッチも絶妙だが、特に太宰治とのやり取りが、妙に淡々としていておもしろい。何しろ太宰のほうは「井伏さんは悪人です」と書いているのだから。太宰に限らず、本書に出てくる人々との著者の付き合い方はずいぶん飄々としていて、なんだか隠居めいているのである。

2・26事件や太平洋戦争などの時代背景も織り込まれており、荻窪という場所をどんな時代が通り過ぎたかがよくわかる。だがやはり、なんといっても私にとって思い入れのある荻窪という場所のかつての姿を、井伏鱒二の生き生きとした文章で読むことができたのがよかった。場所に歴史あり。