自治体職員の読書ノート

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【2012冊目】橋爪大三郎『人間にとって法とはなにか』

 

人間にとって法とは何か (PHP新書)

人間にとって法とは何か (PHP新書)

 

 


 
1 法とは、強制をともなったルールである。
 
2 法律をみんなが受け入れなければならないのは、背後に「正しさ」を含んでいるためである。
 
3 法を「上から強制されるもの」ととらえる限り、世の中はよくならない。
 
4 「自然法=神の法」と考えられてきたが、啓蒙思想の時代に「自然法=人間の理性」となった。だが、これらはいずれも近代という「ゲーム」のルールにすぎない。
 
5 法は言語ゲームである。暗黙のうちのルールと、言葉として明文化されたルールは、異なる言語ゲームの結合ととらえることができる。
 
6 近代法の大原則は「罪刑法定主義」と「契約自由の原則」である。
 
7 ユダヤ教は神との契約を法律とすることで、ユダヤ人としての生活を送ることが神への義務であるというスタイルをつくりあげた。そのため、世界中にバラバラになってもユダヤ人としてのアイデンティティが保たれた。
 
8 キリスト教は法律の否定から入った。ここに政教分離のルーツがある。
 
9 宗教戦争が「宗教的寛容」を生み出した。これは宗教を超える論理である。
 
10 憲法の考え方はキリスト教と密接につながっている。第一に、人間による立法を認めている(ここがユダヤ教イスラム教と大きく異なる)。第二に、契約を更改してよい、と考える(キリスト教そのものが、ユダヤ教からの「契約更改」によってはじまった)。したがって、憲法キリスト教徒にしか思いつけない考え方である。
 
11 議会とは、国王の税金をまけさせるための団体である。
 
12 イスラム社会は、世俗社会であり、同時に宗教共同体である。キリスト教社会は宗教組織が弱いので世俗社会が発達した。イスラム社会は、宗教組織が強すぎて世俗社会が発達しづらい。
 
13 原理主義ファンダメンタリズム)はキリスト教にしか存在しない。聖書を自己流に読むグループのことをファンダメンタリストと呼ぶ。ユダヤ教イスラム教は、長年にわたって積み重ねられた特定の読み方があるので、自己流の読みは認められない。ちなみに、メディアでイスラム原理主義と呼ばれるのはイスラム主義過激派というのが正しく、宗教に名を借りた政治的党派である。
 
14 仏教は、出家者と在家者でルールが一致していないことが必要である。
 
15 仏教は自発的な行動により解脱に至るものなので、ルールはあっても強制はない。
 
16 中国に伝わって、仏教は国家に組み込まれた。そのため、のちに儒教が国家の統治原理になると、仏教は駆逐された。
 
17 日本に仏教が入ってきたとき、戒律がきちんと入ってこなかった。さらに、仏教と神道が混淆した。
 
18 浄土真宗は仏教の革命であった。
 
19 中国では、法は支配者の人民に対する命令である。一方、人民は宗族という小共同体を営んでおり、そこには独自の儒教ルール(孝)がある。また、支配者は官僚に対しては「義」「忠」を求める。これをまとめた儒教原理が「仁」である。
 
20 中国法は連帯責任である。連帯責任制は個人を相互監視の状態に置き、抑圧する。一方、キリスト教ユダヤ教個人主義である。仏教も本来は個人主義だが、その部分は中国や日本にはあまり入ってこなかった。
 
21 中国では、法は上からの強制手段であって、ないほうがよいものと考えられている。日本もこの発想を受け継いでいるので、立憲君主制や民主主義の考え方がうまく根付かない。
 
22 古代の日本には中国から律令制が入ってきたが、うまく定着しなかった。その一方で地域のローカルルールが実際に機能した。荘園制や武家社会はその例である。明治になって憲法が導入されても、戦後になって民主主義が入ってきても、やはりローカルルールのほうが優先されている。
 
23 ヨーロッパ社会は「法の支配」。日本社会は「空気の支配」。
 
24 明治政府は「官・民」という困った考え方を、日本社会に根付かせてしまった。明治政府はさながら教会のように組織され、イデオロギー操作まで行うようになった。
 
25 本来、公共とは公衆である。政府とは公共=公衆のエージェントにすぎない。
 
26 会社は、社会があってはじめて成り立つ。だが、現在は会社がその外側に広がっている社会を無視している。