自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1980冊目】高山文彦『水平記』

 

水平記〈上〉―松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年 (新潮文庫)

水平記〈上〉―松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年 (新潮文庫)

 

 

 

水平記〈下〉―松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年 (新潮文庫)

水平記〈下〉―松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年 (新潮文庫)

 

 

松本治一郎をご存知だろうか。

生涯を通じて部落差別と戦い、官憲によって二度、投獄された。40年近くにわたり部落解放運動の先頭に立ち「解放の父」と慕われ、戦前は三期にわたり衆議院議員を、戦後は参議院に転じて初代副議長を務めた。参議院は戦前の貴族院の流れを汲む。その副議長に就任するということは、被差別部落の出身者が戦前の貴族と同じ立場に立ったということになる。

経歴だけではなく、人物も破格だった。並外れた巨体に豊かな顎鬚。戦前は土建屋を仕切り、荒くれた男どもを束ねて暴れ回った。かと思えば解放運動に惜しみなく私財を投じ、食糧不足の時代には貧しい人々への炊き出しを続けた。戦後は周恩来ネルーとも交流をもち、アジアの連帯を構想した。参議院副議長となった時は、「天皇を神に持ち上げることは、かえって人間天皇を侮辱すること」と、戦前から続く天皇への拝謁をやめさせた。

とにかく規格外、けた外れのスケールなのである。その人物像を描きつつ、戦前から戦後に至る100年間の水平社運動、部落解放運動の歴史を綴ろうというのだから、一冊(文庫本で二冊)に収まったことが奇跡のようなものだろう。上下で900ページを超える大部の評伝だが、全ページにわたって解放運動のエネルギーがみなぎっており、一気に読まされる。

思えばこの100年は、関東大震災世界恐慌満州事変に太平洋戦争、そして戦後はGHQの占領と、時代そのものがとんでもない波乱に満ちていた。当然、水平社の運動も無縁ではいられない。ある時は共産主義に取り込まれかけ、ある時は翼賛体制に身を投じ、左右に大きく揺さぶられながらも、後から見れば驚くべきしたたかさで激動の時代を乗り切った。だいたい第二次世界大戦がはじまった昭和14年、左派政党や団体が次々に解散し、挙国一致体制に呑み込まれていく中で、主だった団体では水平社のみが存続を貫いたのだ(その後、昭和17年に自然消滅することになるのだが)。そのすさまじい戦いぶりは、まさに生き残りをかけた闘争というにふさわしい。

部落差別のすさまじさ、戦前の弾圧の苛烈さも、知識としては知っていたが、こうして読むと想像を絶するものがある。部落解放運動とは、まさしく人間の尊厳のための戦いであったのだ。松本治一郎は投獄されるとき「生命よりながい刑期はない」と言い放ったという。当時、被差別部落に生まれた人々の置かれた状況を、鋭くえぐった一言であろう。いや、「当時」では済まされないだろう。今もなお、部落差別が解消したわけではないのだから。人間が人間の尊厳を傷つけられずに生きるという当たり前の営為が、未だに実現できていないのだから。