自治体職員の読書ノート

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【1964冊目】トーマス・セドラチェク『善と悪の経済学』

 

善と悪の経済学

善と悪の経済学

 

 

著者のセドラチェクは、1977年チェコ生まれというから、まだ30代の経済学者。大学在学中の24歳で大統領の経済アドバイザーになったというから、かなりの俊才らしい。フランスのジャック・アタリが若くしてミッテラン政権の最高経済顧問になったのを思い出す。それでもアタリは30代後半だから、本書の著者のほうが若い。

チェコ、というのもポイントなのだろう。社会主義経済から、激烈な「プラハの春」の挫折を経て、後のチェコスロヴァキア解体、民主化・自由化と資本主義の導入という歴史は、著者自身が体験したものではないとはいえ、どこかで著者の思想に影響しているように思われる。なにしろ、本書はいわゆる主流派経済学に対する、堂々たる異議申し立ての一冊なのである。

主流派経済学の特徴は、合理的人間像というモデルを用いて、数理的方法によって記述を行うという点にある。しかし、もともとそれは、経済という曖昧きわまりない対象を学問の対象として取り扱うための方便であったはずだ。ところが、いつの間にか、経済学は数学で記述できない要素を切り捨て、合理的人間像というモデルを、そのまま現実世界に適用しようとした。ヴィトゲンシュタインは「梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない」と言ったが、経済学者の多くは、合理と効用という「梯子」にしがみついてしまったのだ。

さらにヴィトゲンシュタインの言葉を引用する。「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」そしてもうひとつ。「語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」経済学者は、架空のモデルを現実世界に適用する前に、これらの言葉を頭に刻み込むべきである。本書のメッセージは、つまるところこのことに尽きる。

では、著者が批判する主流派経済学が切り捨てたものとは、いったい何だったのか。それは「倫理と道徳」、そして「物語」であった。そのことを著者は、なんと世界最古の物語である「ギルガメシュ叙事詩」にまでさかのぼって明らかにする。物語の発生において、そこにはすでに「経済」の一端(「ケイザイっぽいもの」)が芽生えていたのだ。

例えばギルガメシュ叙事詩では、ギルガメシュが城壁建設のため人民をこき使い、人間性が生産効率のために犠牲になるという状況が、すでにここに出現していると指摘されている。旧約聖書では「善は報われるか」という、その後の西洋哲学を貫く大テーマが提示されるが、これは経済学にとってもきわめて重要な問いである。古代ギリシャでは、アダム・スミスに劣らない経済分析を行ったとされるクセノポンの経済思想がおもしろい。なんとクセノポンは、税収を増やす手段としては国有化や戦時財政より貿易の拡大が望ましいということを、二千年以上前に指摘していたというのである。

その後についても、たとえばキリスト教こそ社会経済的理念の大半が由来・派生するおおもとであると指摘され(「われらの罪を赦してください」と「われらの債務を免除してください」の類似には笑った)、デカルトは合理的人間像のルーツである人間機械論を主張したとされる。

興味深いのは次のマンデヴィルで、この人物に一章を割いて論じた経済学の本はあまりないのではないか。マンデヴィルは『蜂の寓話』において、「部分の悪は全体の善に寄与する」と主張した(もっともこうした考え方は、実際にはマンデヴィルの独創ではなく、新約聖書トマス・アクィナスにもみられる)。ここから、個人の欲望という悪徳が市場においては「見えざる手」によって徳に変わる、という発想が出てくる。なお、「見えざる手」といえばアダム・スミスだが、彼自身は『道徳感情論』において、ストア派を「徳の本質を適切さあるいは中庸に求める学派」と評価し、徳と倫理の重要さを主張した。欲望肯定派はむしろマンデヴィルのほうである。

ここに、一つの軸が登場する。一方の端にはイマヌエル・カント、もう一方の端にはマンデヴィル。その間を構成するのは、カントの側から順に、ストア派キリスト教ヘブライ思想、功利主義エピクロス派、主流派経済学である。

カントは無私の善を求め、倫理的行為とは報われることのない行為であるとした。ここからは、そもそも善行に報奨(効用)を求めるという発想自体が否定される。ストア派はこれより緩く、報奨の拒絶までは求めないが、報奨が行為の動機になってはならないと考えた。次のキリスト教も禁欲性においてストア派に近いが、人間は独力では理想に届かないとした一方で、行為のみならず思考の中にも罪を見た。

ヘブライ思想は「日々を楽しむ」ことを認め、神の定めた掟の範囲内であれば効用の最大化を禁じなかった。これがJ・S・ミルらが主張した功利主義になると、効用の追求が認められるが、それは基本的に「全体の幸福」を優先するものとされた。エピクロス派は、行為の善悪を結果の効用のみによって評価したほか、外から与えられるルールの必要性を否定し、善は内生的に生じるものと考えた。

そして主流派経済学である。ここでは(エピクロスとは異なり)すべての行動を利己心で説明しようとする。個人は欲望の最大化を求め、それが結果として全体の幸福に至るとするのである(この点で、個人の幸福より全体幸福を優先した功利主義とは大きく異なる)。最後のマンデヴィルは、先ほど書いたとおり。悪徳(私悪)が増えるほど全体の幸福の余地が大きくなると主張したのであるから、まさに「劇薬」思想といえる。

すでに書いたとおり、本書は現在の経済学の網の外にこぼれ落ちたさまざまな要素(上に書いたのはそのごく一部)を丁寧に拾い上げ、そこから経済学の「本来」を描き出そうとした意欲的な一冊である。そしてまた、経済という要素を通じて、古代から近代までの西洋思想を大づかみに一覧できるというメリットもあるように思う。経済というスコープから読み直すヘブライ思想やキリスト教は、格別だ。

経済学なんてつまらない、退屈だと思う人(私も含めて)ほど、本書にはハマると思う。今の社会経済がどこかおかしいと思う人も、本書を読めば深く納得するだろう。チェコの俊英が、西洋思想史を総動員して経済学のネガポジを反転させた力作だ。