自治体職員の読書ノート

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【1963冊目】天児牛大『重力との対話』

 

 

ブレヒトを演じるために「明日までに髪を切ってこい」と教師に命じられ、通っていた俳優養成所を離れた。友人を通じて麿赤兒に、そして土方巽に出会ったことから、前衛舞踏の最前線に出会い、自ら「山海塾」を立ち上げた。

「即座になにかの公演や舞台に結びつくような表現をそこで創作するつもりはまるでなかった。むしろ逆に、私がそれまでの経験で培ってきた様々な基本を彼らとともに再検証しようと内心考えていたのだ」

天児と書いて「アマガツ」と読む。幼児の魔除けとして枕もとに置いた形代、人形のことである。舞踏家とは、様々な人の形を舞台に映し出す存在である。そのため「アマガツ」を名乗ることにした。

二年あまりを費やして作り上げた『金柑少年』は、たった二日の初演で終わった。ところがひょんなことからフランス大使館の目にとまり、フランスのナンシー・フェスティバルに招かれることになった。公演は最終日。「プロメテウスの火のような存在」と称えられた。


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たいていの日本人はフェスティバルが終われば日本に帰る。だからこそ、一年はヨーロッパで活動すると宣言した。15都市をまわる欧州ツアー。その中で、パリ市立劇場が共同制作の名乗りを挙げた。画期的なことだった。『縄文頌』をやることにした。

「新作を必ず成功させる、もちろんそんな秘法などありはしない。だがもしなにかひとつ自分なりに当時からこだわっていた点があるとするなら、それはとにかく自分自身に徹底して向き合うこと」

赤ん坊はみな、最初は横たわっている。それが1歳頃に立ちあがり、「水平」は「垂直」になる。さらに片足立ちに至り、さらには舞踏につながっていく一連の「水平から垂直への動き」は、すなわち重力との対話である。

「人が立つこと、動くことは常に重力との関わりであり、重力との対話にほかならない。身体を基としたダンスもまた、重力との対話である」

ところで、山海塾の稽古場には鏡がないという。意外とも思えるが、その理由は明快だ。踊り手は自分の動きの見え方よりも「意識や体感への集中」を重視しているのである。外的な美しさは、それに付随して生まれてくるものにすぎないという。

言い換えれば、踊りとはおのれの内面、「自分との内的コレスポンダンス」を身体の動きとしてあらわすことで、それを観客に伝えるという行為なのである。もちろん、内面のイメージや思考を伝えるものとしては「言葉」というものがあるが、それでは送り手側が優勢になりすぎる。踊りにおいては、むしろ踊り手の「発信する力」と観客の「受け止める力」を結びあう仮想のブリッジが築かれる、と著者は言う。

もちろん、受け手である観客の感じ方、受け止め方は様々であり、その意味で舞踏における「絶対」は存在しない。それはあくまで観客の心の中で受け止められ、花開くものなのだ。そのことを著者は「舞台創造とは、他者の心に生きる「記憶の営為」なのだ」と語る。

踊り手はまず自己の内面に意識を向け、それを外に拡張することが求められる。目に見える踊りとは、単にその結果に過ぎず、ある意味では内面の心的作用の結果にすぎないのかもしれない。しかし、だからこそ踊り手たちは、基礎的な身体の動きを学び、内面の動きがよどみなく身体の動きにあらわれるよう訓練を重ねるのだろう。

「内部の力と外部の力
 いくつもの中心
 意思による動きと重力の間の不可欠なかかわり
 体は常にそれらの間で振動し動揺する」