自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1957冊目】マルグリット・ユルスナール『黒の過程』

 

黒の過程

黒の過程

 

 

「黒の過程(opus nigrum)」とは、錬金術の中でもきわめて危険な「形態の溶解や焙焼の試み」のことである。老錬金術師ドン・ブラス・デ・ベラは「人が望むと望まざるとにかかわらず、条件が満たされさえすれば、その変化は自然に起こる」と言った。

本書は、医師にして錬金術師ゼノンの遍歴を辿った小説である。『ハドリアヌス帝の回想』で実在のローマ皇帝の精神を描いたユルスナールは、ルネサンス宗教改革の時代、混沌としたヨーロッパを舞台に、架空の人物を物語の中心に据えた。しかもこの人物、実在か否かという点は別にしても、なんとハドリアヌス帝と違っていることか。

ハドリアヌスが、ちょうど冒頭でゼノンと行程を共にするアンリ=マクシミリアンのように、人間精神そのものであったのに対して、ゼノンは人間の「外」に飛び出そうとする異端の精神である。アンリ=マクシミリアンが「とにかく人間であることが大事なんだ」と言ったのに対して、ゼノンは「ぼくにとって大事なのは人間以上のものになることなんだ」と答えるシーンが、冒頭近くに置かれている。それはいつか来たるべき「黒の過程」をみずから通過することなのかもしれない。

ハドリアヌス帝の回想』が、ハドリアヌスという傑出した人物の精神を中心に置いているという点で、ルネサンス的で静的な安定性をもっていたのに対して、本書は、ゼノンという人物に焦点をあてつつ、もうひとつの焦点をさまざまな人物や出来事に次々と振り当てて、あたかも二つの焦点をもつ楕円のような動きとエネルギーに満ちている。その意味で、ルネサンス期を舞台としているにも関わらず、本書はなんともバロック的な一冊なのだ。

しかも、周囲の動向の激しさに比べて、ゼノンの精神のありようは小憎らしいほどに落ち着き払った、静謐とさえいえるものだ。さすが「人間以上」を目指すだけあって、ゼノンは人間らしい感情を、ことごとく振り捨てようとしているようにみえる。だがそれにもかかわらず(いや、それゆえに、というべきか)、ゼノンはなんとも人間臭く、精神の葛藤と矛盾に満ちている。人間を超えようとしているというその一点において、ゼノンはまさしく人間にほかならないのだ。

戦争と荒廃、カトリックプロテスタント、祈りと魔術、正統と異端、信仰と欲望。さまざまな要素の間を蛇行するように書かれた本書は、正直いささか読みにくく感じた部分もあった。だが、そうした書き方ゆえに、人間の精神と歴史の重なり合いが重層的に見えてきて、その圧倒的な深みと鮮やかさは目がくらむほどだ。とりわけ、「黒」に呑み込まれていくゼノンの最期は、読んでいるほうも息をのむばかり。「ハドリアヌス」と並んでオススメしたい一冊である。