自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1956冊目】ピーター・メンデルサンド『本を読むときに何が起きているのか』

 

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

本を読むときに何が起きているのか  ことばとビジュアルの間、目と頭の間

 

 

著者の本業は装丁家だ。本の内容を踏まえた上で、謎と暗示を巧みに織り込み、端的にヴィジュアル化するのが仕事である。巻末の山本貴光氏の解説では、著者の装丁した本の表紙が紹介されているが、いずれも遊び心に満ちたユニークなものばかり。

本書は、そんな著者の初めての「自ら書いた本」であるらしい。原題は”WHAT WE SEE WHEN WE READ”、つまり「本を読む時、私たちは何を見ているか」ということになる。さて、これってどういうことなのか。

例えば『アンナ・カレーニナ』を読むとする。その時、私たちはアンナ・カレーニナの顔が明瞭に「見えて」いるだろうか? だとしたら、それはどんなふうに想像しているのか? 描写されていない部分(例えば鼻のカタチ)については、どんなふうに補っている?

こう考えていくと、誰もが当たり前に行っていると思われる「小説を読む」という行為が、実に謎めいたものに見えてこないだろうか。お気に入りの小説の映画化やドラマ化で、主人公を演じる俳優を見て「思ってたのと全然違う……」と落胆することはないだろうか。とすると、そもそも最初に私たちの頭の中に浮かんだ主人公の姿というのは、いったいどこから来ているのか。

問題は姿だけではない。声色はどうか。住んでいる家は? 性格ですら、心理描写がいくら事細かくなされていても、私たちはそれをある程度想像で補って、ひとつのパーソナリティを想定している。すべてが描写されているということは、ありえない。だとすれば、われわれは小説を読むときは、必ず、そこに「想像」のブリッジングを行っている。

読書には、この「想像」が大事なのだ。本(マンガや画集ではなく、文字ばかりが並んだいわゆる「本」)を読むとは、単に出来合いのものを受け取るだけではなく、そこに能動的な精神の作用が生まれることなのだ。そこがテレビやゲームともっとも大きく違うところである。映像の場合、書かれていない部分を「補う」必要は、ほとんどない。

「本は、私たちにある種の自由を与えてくれる。本を読む時、精神的に活動的になることができる。私たちは物語の(思い描く行為の)正真正銘の参加者なのである。
 あるいは、あいまいで不完全な想像を超えられないことが真実ならば、それこそが、文字による物語が愛される究極の理由ではないだろうか。つまり、時に我々は見たくないのだ」

さて、それでは先ほどの疑問に戻ろう。私たちはまだ見ぬ本の世界を想像する「素材」を、どこからもってきているのだろう。著者は、それは私たち自身の「経験」であるという。言葉は経験を喚起し、私たちはそれらを組み合わせて、まだ見ぬ小説の世界を想像しているのだ。

「川という言葉は、川に支流が流れているのと同じように、ありとあらゆる川を含んでいる。そしてより重要なのは、この言葉にはあらゆる川だけでなく、すべての私の川を含んでいるということだ。私が今までに見た、泳いだ、魚釣りをした、聴いた、聞いたことのある、直接触った、またはさまざまに間接的に、曖昧に影響を受けた、覚えている限りの川を含むのだ。それらの「川」は無限につながる小川や支流で、想像に拍車をかけるという小説の持つ能力を助けるのだ」

だが、すべてが「経験」によって賄えるわけではない。そこには類推という別の作用が働いている。部分から全体を、あるいは全体から部分を推定するにあたっては、この作用、中でも比喩の力が大きな役割を果たす。

ホメーロス叙事詩には、定型的な形容が頻出する。アキレウスは「駿足の」、海は「葡萄酒色」、ヘーラーは「牝牛の目をした」と形容される。そして、例えばヘーラーの「牝牛の目」は、「換喩」つまり「ひとつの物(または概念)が、関連する何か別の物(または概念)で呼ばれる比喩的表現」であって、その中でも提喩と呼ばれる「部分が全体を表す換喩」なのだ。

※なお修辞学では、換喩をメトニミー、提喩をシネクドキと呼ぶ。メトニミーが「部分で全体を表象」、シネクドキが「一方が他方を包括」という違いがあるとされている。本書の説明では、提喩は換喩の一部とされているのだが。

それはともかく、大事なのはここで「部分と全体」の往還関係が明らかにされていることだ。部分をもって全体を表すことができるということは、全体から部分を推定することができるということでもある。私たちは、無数の細部からなる世界の「部分」ばかりを見ることはできない。部分をもって全体を捉え、今度は全体から部分を推定する。そのようにして、私たちは登場人物を、あるいは物語そのものを「見る」ことができるのだ。アンナ・カレーニナの鼻についての描写がなくても私たちがアンナの顔を想像できるのは、アンナの外見(の一部)や心理描写がなされているため、そこからアンナの「全体」を捉え、経験や類推をもって、他の「部分」を見ているためなのである。

さて、先ほど「世界」と書いた。実は、本書が真にとんでもないのは、読書の話として議論を進めておいて、実はそれが「世界を読む読み方」でもあることを、最後にしれっと明かしているところである。私たちは「未完成で進行中」の世界の断片をつなぎあわせ、統合し、意味と筋書きを読み取ろうとする。本を読むという行為は、実はこうした「世界の読み方」と相似形なのである。唯一違うのは、物語の場合、著者による世界の「要約」がいったん介在していること。だが、どちらの場合も、結局読者による「要約」が必要なのである。だから、著者はこう言うのである。

「本を読むことは、読者が世界を知るためのこの手順の反映である」

そして、もうひとつ。

「細部ではなく、あくまで輪郭を描くのだ」

ところで本書がユニークなのは、こうした「文字を読む」「文章を読む」ことの意味を問い直しながらも、この本自体は無数のイラスト、図解、フォントの遊びなどに満ち溢れていることである。ヴィジュアルを追っていくだけでも、おそらく相当楽しめるし、「読むこと」の意味を辿るには十分だ。だが、その奥に隠された「読書観」の提示は、実はなまやさしいものではない。

深くも浅くも読める、前代未聞の読書論。