自治体職員の読書ノート

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【1951冊目】池田晶子『ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け』

 

ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け (新潮文庫)

ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け (新潮文庫)

 

 

『帰ってきたソクラテス』に続くソクラテスシリーズ二作目……といっても、実は第一作は読んでいない。でも、全然問題なし。すっごく面白かった。

プラトンの対話形式を本歌取りしながら、ソクラテスと「悪妻」クサンチッペというとんでもない組み合わせで、この世の中の出来事、流行りもの、売れ線の本などをバシバシ斬っていく。ロジック(クサンチッペの言い方では「理屈」)を空中に積み重ねていくソクラテスと、生活感覚と直観でズバッと一刀両断するクサンチッペという組み合わせは、一見水と油のようだが、読んでみると、意外な相乗効果を発揮しており、すれ違っているように見えた議論がとんでもない高次元で噛み合っていく。

「斬られ役」として登場するのは、本で言えば『ソフィーの世界』に永六輔『大往生』、立花隆臨死体験』といささか古いが、これは本書自体が平成8年刊行だから仕方がない。マルチメディアブーム、阪神淡路大震災オウム事件と、出てくる時事ネタも懐かしい。

だが、展開される議論は今でも十分に通用するものばかり。というか、今の世の中にあるモノから出発して、対話によって考えを深め、普遍的な「知」のありように接するというのが哲学の本来の姿なのだとすれば(たぶんそうなのだが)、本書はまさにその生きた見本市、ホンモノの哲学の模範演技である。なんといっても、哲学とは「哲学書」を読むことではなく、徹底的に考え抜くことであるということが、あらためて確認できるのだ。

だから、例えば『ソフィーの世界』のような本こそ、著者に言わせればもっとも「非・哲学的」な本であるということになる。クサンチッペによればこれは「いつ誰がどう考えたかってこと、ただずらずら並べてるだけ」「それを自分がどう考えるかってこと、結局一言も言ってない」本に過ぎないのだ。だがそれは『ソフィーの世界』だけのことではないだろう。世の「哲学書」あるいは「哲学入門書」のたぐいは、たいていこの種の「哲学カタログ」に堕している。

そんな簡単なもんじゃないのだ。先ほどの引用の少し後でソクラテスが言うように、哲学というのはそんななまやさしいものじゃないのである。哲学とは、誰もが目をそむけている「本当のこと」を知ろうとすることなのだ。

「人が本当のことを怖れるのも無理はない。本当のことは、怖いのだ。いや、知らないからそれを怖れるのだ。しかし、哲学とは、本当のことを知りたいと希うことなのだったね。さてでは、哲学を知りたいと希っている諸君に、それだけの覚悟は、あるのかな。鬼神の声を聞く僕が狂気と呼ばれ、生を信じない僕が死刑を甘んじるように、およそ「考える」とは明らかに自殺行為、この世の幸福との訣別なのだ。哲学愛好者の諸君に、それだけの覚悟が、あるのかな」

そして、本書で問われる「正義」「欲望」「生と死」などのテーマは、いずれも深めれば深めるほど「この世の幸福との訣別」につながっていくようなものばかりなのである。そう考えると、本書の最初の方に書かれている上のセリフは「この門をくぐる者は望みを捨てよ」という意味だったのかもしれない。

単なる軽妙な夫婦「哲学」漫才だと思っていると、足元をすくわれる。実は本書の正体は、「本物の」哲学の深淵に読者を連れ込もうとするメフィストフェレスなのだ。ヤケド覚悟で、お読みなさい。