自治体職員の読書ノート

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【1881冊目】鎌田茂雄『法華経を読む』

 

法華経を読む (講談社学術文庫)

法華経を読む (講談社学術文庫)

 

 

「人をのみ渡し渡しておのがみは岸に渡らぬ渡守かな」

菩薩のことを歌った古歌だそうである。菩薩とは、仏の次の位にあって悟りを求める者のことであるが、そのための修行や学びは、自分だけでなく他の一般人(衆生)を救うためのものであった。

旧来の仏教、いわゆる上座部仏教(部派仏教)が「自分だけ」が悟りを開いて仏になることを目指す自己救済の教えであったのに対して、法華経などの大乗仏教は、自分だけでなく他者の救済にベクトルを向けた。それが上の古歌にみられる「おのがみは岸に渡らぬ渡守」ということである。

とはいえ、おおもとのブッダの教えはまぎれもなく「自己救済」のための道を示すものだった。それを後付けで「他者救済」の教えに切り替えるには、相当なアクロバット思考が必要だ。それが法華経における「方便」という考え方である。

法華経によれば、もともとブッダは「他者救済」を説きたかったのだ。しかし、一般の人々にいきなりそんな高度なことを説いても理解できないだろう。しかも彼らは、さまざまな苦しみの中で生きていながら、そのことにすら気づいていない。まずは目先の「エサ」をちらつかせ、苦悩から抜け出すことが先決なのだ。これを比喩によって表したのが「三界の火宅」という物語であった。

本書は法華経を、28個ある「品」ごとに解説した一冊だ。読んでみて驚くのは、とにかくわかりやすい絶妙の比喩が多いことだ。さきほどの「火宅」のたとえ(燃え盛る家から子供を逃がすために、まずは方便としてほしいおもちゃをちらつかせる)や、受け取る器によって説くべき法は異なるという「草木の喩え(薬草喩品)」、真の宝を手に入れさせるべく幻の城を築いた「化城の喩え」など、読むだけで大乗仏教の教えのコアの部分がスッと胸に落ちる。このあたりは、さすがに数千年生きながらえてきた世界宗教の底力であろう。

28あるすべての章(品)を紹介したいところだが、そこまでの余力はないので、気になったところをピックアップしてみる。まず、ブッダの息子でもある羅喉羅(喉は目ヘン)についての「密行」という評価である。これについては、次のように解説されている。

「あまりにすぐれた能力をもつ人は、敬して遠ざけられ、親しみもわかないものである。となると、人々を教化することもできない。そこで自分の能力をできるだけ包みかくして外にあらわさないようにする。「自分は愚かな者であるが、何とか仏の教えを実行しようと心掛けている。もしやる気があれば、いっしょに修行しようではありませんか」というような態度のことを密行というのである」(p.164-165)

このあたりは、老子の「和光同塵」を思わせるが、「すぐれた能力云々」は別とすれば、私自身、思い当たる節がいろいろあって耳が痛い。

次に取り上げたいのは、法華経全体の転換点にあたる第15章「従地涌出品」。ここでは、ブッダの言葉に応じて大地が震動し、そこから「無量千万億」の菩薩たちが湧き出てくるというシーンがあるのだが、肝心なのはその意味するところである。著者によれば、ここで説かれているのは「『法華経』をこの世に弘(ひろ)めるためには、他の世界から来た者の力を借りないで、この世界にいる者が自分たちの手で教えを弘(ひろ)めなければならない」(p.244)ということだという。

だが、ここで一つツッコミたくなることがある。ブッダはわずか40年(それでもキリストなどに比べればべらぼうに長いが)で出家~初転法輪~入滅までを行っているはずだが、なぜそれで「無量千万億」の菩薩がブッダの教えを受けた者とされるのか。いったいブッダはいつの間に、これほど多くの(というか、ほとんど計数不可能の)菩薩たちに教えを施したのだろうか。

そこで出てくるのが第16章の「如来寿量品」で、ここでは、本当はブッダははるか昔(百千万億那由他阿僧祇劫、だそうである)に悟りを開いたのであって、そうした「おおもとの仏」がさまざまな形をとって世の中に現れたのが「迹仏」というのである、ということが示される。ここで、法華経前半で教えを説いていた仏は「迹仏」であり、本当はその奥に「本仏」がいるということがはじめて見えてくるのである。

こうして法華経は、ブッダの教えを大きく転換させただけでなく、ブッダその人までも、その奥に「本来のブッダ」を想定するという離れ業を成し遂げるのである。そして、この離れ業が見事に決まったところから、主に日本や中国における大乗仏教の歴史が始まったのだ。そう考えると、ひとつの経典の中にこれほどのドラマツルギーが織り込まれるとは、なんともものすごい話である。

さて、もうひとつ気になった「菩薩」がいる。第20章の「常不軽菩薩品」に出てくる常不軽菩薩だ。これはなんとも変わった菩薩で、途中で行き交う人がいると、どんな人に対しても同じように礼拝するというのである。相手が王侯だろうが農民だろうが乞食だろうが関係ない。

なぜそんなことをするかと言えば、すべての人は生まれながらに仏性をもっているからなのだ。菩薩の道を行じさえすれば必ず仏になれると確信していたのだ。これもまた、自分一人が仏になろうと修行する人々には持ち得ない感覚ではないか。だって、すべての人はそもそも、潜在的にはすでに「仏」なのである。そのことを端的に示してみせたのが、常不軽菩薩という存在なのではないだろうか。