自治体職員の読書ノート

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【1877冊目】中村昇『ウィトゲンシュタイン ネクタイをしない哲学者』

 

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

ウィトゲンシュタイン―ネクタイをしない哲学者 (哲学の現代を読む)

 

 

徹頭徹尾、わかりやすい言葉で綴られたウィトゲンシュタイン案内。著者自身は「カジュアルの極北」を目指したと書いているが、「極北」まで行っているかはともかくとして、たしかにとっつきやすさは類書随一だ。

「ことば」「倫理」「たしかなこと」の三部構成だが、全体の半分以上が第一部「ことば」で占められている。キーフレーズは「語の意味は、その使用だ」というウィトゲンシュタインの言葉だろう。著者はこれを「言葉の意味は、それを使うことだよ」と言い換えているが、さて、これってどういうコトなのか。

哲学では、「ことば」が問題とされることが多い。言葉の「意味」とはどういうことか。言葉とそれが指し示す具体的なモノはどういう関係にあるか。「長さとは何か」「数字の1とは何か」と問われたとき、われわれはどう答えることができるのか……。唯名論実在論の論争をはじめ、哲学者は多かれ少なかれ、この問いと無縁ではいられなかった。

だが、こういう「問い」自体、哲学に興味がある人以外のほとんどにとっては「どうでもいい」ことではないだろうか。言葉の意味なんて説明できなくたって、実際にその言葉を使えてるんだから、いいじゃん。それで何か問題あるの? 世間のいわゆる「フツーの人」なら、そう答えるのではないだろうか。

実はウィトゲンシュタインが言っているのは、まさに「そんなこと、どうでもいいじゃん」ということなのだ(たぶん)。言葉を使えてれば、その言葉を(その人なりに)理解しているってことは伝わるのだし、その意味が完全に相手と一致していなくても(例えば「犬」というコトバで、自分が柴犬を、相手がダックスフンドをイメージしていても)、それで会話が成り立つんだったら、それでいい。それが世の中で行われている「言語ゲーム」というものなのだ。これを著者は、ウィトゲンシュタイン自身が『論理哲学論考』において使った「示す」と「語る」という動詞によって説明する。

 

「語をちゃんと使っていれば、その人が、その語の意味をわかっていることがおのずと周りの人にも伝わっていく。これこそが「語の意味」なのであって、それ以外のところに「意味」なるものがあるわけではない。語の意味は「示される」のであって、「語られる」のではない、ということですね」(p.268)

 

「倫理」を扱った第2部では、レヴィナスを引きつつ、「顔」というキーワードから「自己と他者」「倫理」という大テーマを扱っている。ちなみに、本書で指摘されるまで考えたこともなかったのだが、自分の顔って、ある意味「自分そのもの」があらわれている場所なのに、自分では見えないのだ。自分の顔は、他人しか見ることができないのである。

「自分の顔は、他人が、一番よく知っていて、他人の顔は、自分が一番よく知っている」(p.196)

これが、レヴィナスがその思想の出発点にしたところであり、ウィトゲンシュタインが「顔はからだの魂」と言ったところでもある。魂だって、自分そのものでありながら、自分では見ることができないのだ。つまり人は、自分を知るには、他人を鏡にするしかないのである。ウィトゲンシュタインはこれを「相互反転」と呼び、この相互反転の場を「言語ゲーム」と名づけたのだ。そして、この「魂のあらわれとしての顔」こそが、人にとっての倫理の基盤となるのである。この結論は、倫理をめぐる議論としては、これまで読んだ中で一番納得がいくものであった。

「「人を殺してはいけない」というのが、「他人、ひいてはその魂を無きものにしてはいけない」という意味であるならば、その「魂」が(それが存在するかどうかはべつにして)唯一露呈している(と思われる)「顔」が、「汝殺すなかれ」とこちらに訴えているというレヴィナスの考えは、私たちの世界を見渡したとき、どこにも、倫理の手がかりが見つからず、ただひとつの隘路として「魂」へかすかな予感が感じられる「顔」に、倫理のすべての重みを託した、ひとつの賭けのようなものだったと言えるのかもしれません」(p.230-231)