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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1876冊目】丸谷才一『快楽としてのミステリー』

 

快楽としてのミステリー (ちくま文庫)

快楽としてのミステリー (ちくま文庫)

 

 

まったく、こういう本は困るのである。ただでさえ積ん読本が山をなしているのに、読むほどに「読みたい本」が増えてしまうのだから。

読む人の心を「くすぐる」のが、この著者は本当にうまい。クレイグ・ライスの『素晴らしき犯罪』は「この本の出だしは舌を巻くしかない」の一言で読まずにはいられなくなるし、同じ「舌を巻く」でも、エリック・アンブラーの『影の軍隊』は「わたしははらはらしながら最後の三行を読み―その三行の水際立った芸に舌を巻いたのである」とくる。

特に気になったのはP・D・ジェイムズ。『女には向かない職業』を「謎の作り方は堅牢で、小説的な興趣は極めて豊かであり、登場人物のあつかひ方は情愛にみちている」とトータルで称賛しつつ、次の『罪なき血』は、筋書きを要約した上での「フィリッパはやがて過去についての、もつと恐しい情報をつきつけられることになるだらう」という一言で、読み手を強烈に誘い込む。

その手練手管は、まさに名人芸。引用の切り取り方から要約の仕方、特徴の捉え方から他の作品との比較法まで間然とするところがなく、しかも全体がやわらかなユーモアで包まれている。褒める一方ではなく、批判すべきところはきっちりと批判しており、そのメリハリも心地よい。こういうのを読むと、自分の稚拙な読書ノートが恥ずかしく思えてくる。

ミステリー書評は「ネタバレ」の問題がついて回るが、この点の処理もあざやかだ。まあ、ミステリーに限らず、そもそも書評というのは、一冊の本をまるまる取り上げることはできないのだから、その本のどこを取り上げ、どこを伏せるか、というところが最初の勝負である。伏せた部分の伏せ方によって、そこに何があるかを感じさせることができれば、もっとよい。

この点が、著者は神業的に巧いのだ。わずか数ページの文章に、一冊の本がまるまる包含されており、しかもそこからは他の本にまで触手が伸びている。おそらくその技巧は、小説そのものの書き方ともつながっているのだろう。小説家ならではの批評というべきか、こうした書評術が、作家としてのテクニックにもつながっているというべきか。

ミステリー(というか、探偵小説)に対する著者の考え方もおもしろい。著者は、探偵小説は「大人の童話」であるという。その理由もまた、私がミステリーに対して感じている魅力を、私よりはるかに的確に説明している。そうなのだ。犯人当てがしたくって、ミステリーを読んだことなど、少なくとも私は一度もない。

「人は果して、誰が犯人なのかといふ関心のみの虜となつて、探偵小説のページを繰るものだらうか? すくなくとも、ぼくの場合は違ふし、トリックだのアリバイ崩しだのは、ぼくの関心のなかの極めて小さな部分しか占めてゐない。もつと古風に、近代人の趣味に合せたロマンチックな幻想として、探偵小説を愛するのだ」(p.375)