自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1869冊目】本川達雄『生物多様性』

 

 

地球上には、わかっているだけで190万種、推定では数千万種の生物がいるといわれている。ところがこの種数、毎年、0.01~0.1%ずつ減っている。現存する種の数が1900万種とすれば、毎年1900~1万9000種が絶滅しているのだ。これは1日あたり5~50種、30分~5時間につき1つの種が失われているという勘定になる。

これはまずい、なんとか地球上の生物多様性を保たなければ……ということで「生物多様性条約」が締結されたのだが、そもそも、なぜ生物多様性は大事なのか? 数千万もの種が、本当に必要なのか? というところから、本書の議論ははじまっている。そのために生態系や進化論、特に生物多様性が集中している熱帯雨林サンゴ礁についてくわしく解説しているのだが、それもこれも、すべてこの問いに答えるなのだ。

まず、そもそも「多様性」とは何か。まず著者は、現代人が依拠するイズムを大きく2つにわけてみせる。一つは、普遍的で世界中で通用する「普遍主義」。物理法則や「グローバル・スタンダード」はこれにあたる。そしてもうひとつは、自分のことだけを考える極端な個人主義だ。

現代人の多くは、この「普遍」と「個物」の両極端を行き来するだけで、その中間のことは無視している。そう指摘した上で、著者は、生物多様性とはまさにこの「普遍」と「個物」の中間に位置することなのだ、というのである。

多様性とは「普遍性」とは正反対の概念である。多様性とはそれぞれの種がそれぞれに異なっていることであり、それは共通の法則やルールを求めようとする「普遍」の逆であるからだ。

同時に、多様性は「個物」とも相反するものである。自分中心に考える個人主義にとって、生物多様性は「自分」の外で起きている出来事にすぎず、そもそも興味をもつこともむずかしい。そのため現代では、生物多様性は大事にされないことが多い。

こうした「普遍」や「個物」といった見方の根底にあるのは、科学、特に物理学の発想である。まず普遍主義は、数量主義という物理学的発想を根底にもっている。これが経済の基本原理となったのが「貨幣」である。貨幣経済は物理学と同根のものであり、質的に異なるさまざまなものを「貨幣」という量によって一元的に把握しようとする。

だが、こうした「数量主義的発想」と生物多様性の発想は、水と油の関係にある。なぜなら生物多様性とは、それぞれの種という「質」の問題であるからだ。多様とは豊かなことである、と著者は言う。ただし、その豊かさを味わうには、受け手の側が多様な価値に対して開かれている必要がある。これは、貨幣・価格という一元的な価値しかもたない「数量主義的発想」とはまったく相容れない。

一方、「個人」つまり「私」というものの捉え方についても、著者は再検討を行っている。物理学的発想に基づく「私」観を、著者は「粒子的私観」と呼ぶ。これは、個人というものを粒子、原子のような、分割できない独立したものとして捉える発想だ。個人は英語でindividualというが、これは「in(否定)」+「divide(分ける)」であり、まさに粒子的に捉えられているといえる。

だが、本当に「私」とは、外部から独立した分割不能の粒子のようなものなのだろうか。著者はむしろ、「私」とは周囲の環境に対して開かれたものであり、同時に自分の中に多様性を抱え込んだ存在であると考える。生物多様性は自分の外の世界だけではなく、自身の内にもあるのである。

例えば、学校の進路相談をみていると「好きなことを仕事にする」ことが自己実現であって幸せである、と考えていることが多い。だが、これは「私が好き」という一つの価値観だけで自分の世界を一様に塗りつぶす「好き好き至上主義」にすぎない、と著者は言う。それに対して多様性を大切にする発想とは、その中に自分の嫌いなものも含まれていることを認め、それを引き受けること。「私」とは、好きなものも嫌いなものも混ざった「多様な私」なのである

著者自身、ナマコを研究しているが、最初はとても付き合えないと感じたそうだ。だが40年間研究を続けるうちに、ナマコにはナマコなりの独自の素晴らしい世界をもっていることがわかり、ナマコは凄いと尊敬するようになったのだという。面白いのは、いまだに著者は「ナマコが好き」ではないという。好きでなくても、尊敬することはできる。そうした姿勢こそが、内なる多様性に向き合う時のあり方なのだろう。

この著者の姿勢には、正直、アタマが下がる。私の場合、自治体職員なので数年ごとに異動があるが、そのたびに「自分が好きなことは何か」「やりたいことは何か」と考えて異動希望を出してきた(滅多にそのとおりになることはないが)。だが、大事なのはむしろ、どんな仕事、どんな分野にも姿勢を開いて向き合うことなのだ。家庭環境も趣味の世界も同じことである。自分とは、周囲の環境とつながった「多様な私」である。そう考えることが、結局は「生物多様性」を大切にする姿勢にもつながってくるのだ。

著者は利己主義を否定しない。「己」の範囲を広げ、周囲とも未来ともつながった豊かな「己」であれ、と言っているのだ。そうすれば、「己」の永続のために生物多様性が必要なことも、ストンと胸に落ちてくる。

もっとも、これはすでに「生物学」あるいは「科学」の領分を超えた結論である。すでにそれは「思想」であり「生き方」の問題である。だがそれは、そもそも生物多様性というテーマ自体が、価値中立を旨とする科学の範疇を超えたものであるということにほかならない。本書はあえてそうした「科学の彼岸」に切り込んだ、異例かつ勇気ある一冊なのである。