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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1860冊目】モハメド・オマル・アブディン『わが盲想』

 

([も]4-1)わが盲想 (ポプラ文庫)

([も]4-1)わが盲想 (ポプラ文庫)

 

 

この間読んだ高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』に匹敵する、底抜けに面白い本である。違うのは、『ソマリランド』が「外なる異国」についての本だったのに対して、コチラは「内なる異国」を綴った一冊であるということ。ちなみに高野秀行は、本書の著者アブディンをプロデュースした人物でもある。

アブディンは目が見えない。しかも20歳になる直前までスーダンに生まれ育ったスーダン人だ。それが突然、日本に行って鍼灸を学ぶことを決める。

盲人にとっての日本という「舞台」は、アブディンにとっても異国だが、われわれにとっても異国である。どういうことか。アブディンにとっては、自国スーダンに対する異国ニッポン。そしてわれわれにとっては、「目の見える人」にとってのニッポンに対する、「目の見えない人」にとってのニッポン。本書がわれわれにとっての「内なる異国」を描いた一冊であるとは、そういうことだ。

だから本書は、舞台こそ日本だが、まるっきり異国リポートを読んでいる気分で楽しめる。しかも文章がすばらしい。肩肘張らず、ユーモアにあふれ、おそらく相当な苦労をしてきているのだろうが、それを感じさせない。どんな苦労も笑いに変えてしまうパワーは、以前読んだ大野更紗『困ってるひと』を思わせる。そうでありながら、笑い話の中にハッとさせられるエピソードや発見をたくさん織り込んであるのも、よく似ている。

たとえば、歩行訓練士の大槻先生とのやりとりだ。大槻さんがきれいで若い女性だろうと勝手に決めてかかっていた著者のもとに現れたのは「中年太りの見本のような体形をしたおっさん」(もちろん「見えて」はいないが、立てる音や声で分かるらしい)。がっかりする著者に、大槻先生は言う。「モーハメド君、靴のひもが解けてますよ」そして続けるのだ。「今から寮に帰りましょう。そして、靴ひもの結び方を練習しましょう」

この一言を聞いて、著者は「うれしさのあまり、こみ上げてくるもの」を感じる。実はそれこそが、著者の抱える最大の苦しみだったのだ。それまで彼は、ひもを適当にぐちゃぐちゃに丸めてごまかしていた。「結ぶ」という行為が、視覚障害者にとっていかにハードルが高いか。言われてみれば確かにそうなのだが、それを初対面でスパッと見抜いてくれたことが、著者にとってはとてつもなくうれしかったのである。

笑ってしまったのは、同音異義語の習得を「おやじギャグ」でやったというエピソードだ。表意文字である漢字を使わずに同音異義語を把握するという無理難題を、こんな方法でクリアするとは……! たとえば「スーダンはどんなところですか」と聞かれると、著者はこう答える。「スーダンは日本より数段広くて、数段暑い国だ」 そして、ダジャレは語彙の勉強だけでなく、初対面の人と打ち解け、好かれるための必須ツールでもあった。もっとも、著者のいうようなベタなダジャレに大ウケするのは、残念ながら「オヤジ」世代以降だけだったのだが……

本書は著者が学生ながら結婚し、子どもが生まれる瞬間までを書いている。驚いたのは、そこに東日本大震災が関わっていたこと。東京で出産する予定だったアブディン夫婦は、福島第一原発の事故に接し、九州まで逃げてそこで赤ちゃんを産むことにする。すっかり忘れてしまっていたが、当時のなまなましい切迫感を思い出した。特に出産を控えていたり、小さなお子さんを育てている人たちにとっては、あの原発事故はきわめて切実な問題であったのだ。

決して深刻ぶることも大上段に構えることもないが、「目が見えない生活のリアリティ」と「異国での生活のリアリティ」の両方をこれほど説得力豊かに描き出した本は、たぶん他にはないのではないかと思う。読み手の想像力の限界を広げるために、読んで損はない一冊だ。オススメ。