自治体職員の読書ノート

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【1854冊目】橋爪大三郎・大澤真幸『ふしぎなキリスト教』

 

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

 

自然科学。民主主義。市場経済。近代国家。これらがすべて、キリスト教的な世界観を前提としていると聞いたら、意外に思うだろうか。それとも、深く納得するだろうか。

「ぼくらは、自覚しているかいないかは別として、キリスト教的な世界観が深く浸透した社会を生きている」(p.332)

大澤氏は本書のラスト近くで、このように語っている。一見、近代社会は、例えば中世ヨーロッパなどに比べれば、キリスト教の影響下から脱しているようにみえる。だが実は、キリスト教はむしろ近代、現代にこそ深く影響を与えているというのである。

本書はそのキリスト教の「ふしぎさ」に焦点をあてて、大澤氏があえて厳しくつっこみ、橋爪氏がそれに答えるという組み立てによって構成されている。もちろんそこには、キリスト教を茶化したり笑い物にするような意図はまったく含まれていない。お二人は、あえて「ふしぎさ」に着目することで、その特徴をピンポイントであぶり出し、その奥にある本質を摘出しているのである。

そこには「なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか」「全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか」といった一神教にまつわる疑問もあれば、イエスが起こしたとされる「奇跡」の検証や、なぜイエスが処刑されることがすべての人間の罪の償いになるのかといった、きわめて本質的な問いもなされている。あえてそこを突っ込むか、というところにも大澤氏は容赦なく突っ込み、橋爪氏がそれを見事に打ち返す。その絶妙のラリーを楽しむだけでも、本書を読む価値はある。

だが、やはり本書の醍醐味は、そうしたやり取りを通じて浮かび上がってくる、意外きわまりないキリスト教の実像だ。こういう本を読むと、われわれがいかにキリスト教を「わかっていない」かを痛感する。それはつまり、われわれが西洋についてロクに知らないということであり、ひいては冒頭に挙げたような現代社会の基本的な原理について無知であるということだ。

例えば「救い」について。「努力すれば報われる」という発想があるが、これはまったく一神教的ではない。一神教の世界では、救うのは神で、救われるのは人間と決まっている。誰を救うかは神が一方的に決めることであり、人間には発言権はないのである。

さらに言えば、神は主人で、人間は奴隷。この構造が一神教の根底にある。これを徹底したのがカルヴィニズムの予定説だ。マックス・ヴェーバーは、こうした発想が資本主義の形成につながったと仮説して『プロテスタンティズムの原理と資本主義の精神』を書いた。

一方、こうした「神と人間」の関係が、主権や近代国家といった発想につながっていったというのも興味深い。橋爪氏は「主権や国家の考え方はみな、神のアナロジー」であると指摘している(p.316)。人権には「神が自然法を通じて人びとに与えた権利」という意味があるのであって、だからこそ、これを国家が奪うことはできないとして、憲法に人権条項をつくったのである(したがって、憲法もまたキリスト教が背後にあるといえる)。ちなみにここでのポイントは、キリスト教が宗教法をもっていないこと。宗教法(律法)をもつユダヤ教イスラームとの最大の違いはそこにある。だからこそキリスト教徒は、自由に法律をつくり、社会をデザインすることができたのだ。

ちなみにこれは、ユダヤ教キリスト教の違いにも関わるところである。そもそもキリスト教は、ユダヤ教を否定しつつも、ユダヤ教を内包した宗教だった。その違いは「律法」から「愛」への移行である。もっとも、その「愛」すらも、実は律法がかたちを変えたものであるという。どちらも神と人との応答であり、神と人間との関係を設定する契約なのだから。

ユダヤ教キリスト教の関係を、大澤氏は二階建ての家屋に例える。一階部分が旧約聖書(律法)、二階部分が新約聖書(隣人愛)だというのである。その違いをつくっているのが、イエス・キリストという、一神教の中でもきわめて特異な存在だ。結局のところ「イエスとは何なのか」が解けないと、キリスト教の「ふしぎさ」の大元も解けないのであるが、その詳細はぜひ本書に直接あたっていただきたい。