自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1849冊目】オリヴァー・サックス『手話の世界へ』

 

手話の世界へ (サックス・コレクション)

手話の世界へ (サックス・コレクション)

 

 本書の原題は「SEEING VOICES」。たしかに、手話は「見える声」であり、手話による会話は「視覚化された会話」である。だが、本書を読んで気付かされるのは、単に手話が「見える言語」であるというだけではなく、われわれ「健聴者」にとっても、今まで手話の世界、ろう者の世界が「見えていなかった」ということだ。本書は、われわれのすぐ隣にある「音なき世界」を可視化する一冊であった。

まず強調されているのは、ろう者にとっての「言葉」の重要性である。著者は、先天的な障害の場合、聴覚障害のほうが視覚障害より「はるかに深刻」だと言う。なぜなら、聴覚障害者は「言葉」を奪われた状態で、貴重な幼少期を過ごさなければならないからだ。言葉がないということは、抽象観念、数字や時制などが理解できないということである。さらに、言葉が理解できれば、人は周囲の会話や自分への語りかけから、膨大な情報を得ることができる。人は言葉を通して世界を理解するのだ。著者も指摘するように、そもそもinfant(幼児)の語源は「話せない者」である。ろう者とは、最初の段階から「言葉」と切り離されている存在なのである。

にもかかわらず、手話がその重要性を認められるには長い年月がかかった。ろう教育の歴史は、手話と口話の優劣をめぐる論争の歴史であった。「手話」が導入されても、それは音声言語を一語ずつ、手の動きに置き換えるようなものだった。

それは、ろう者による闘いの歴史でもあった。本書の第3部は、世界唯一の「ろう者のための四年制大学」であるギャロデット大学で1988年に起きた「学生たちの反乱」の描写にあてられている。それはまさに、理解を欠いた「健聴者」からろう者が自らの権利を勝ち取ることがいかに大変で意義深いことかを、この上ない形で示すものであり、ここだけでノンフィクション・ドキュメントとしてたいへん面白い読み物になっている。

だが、本書でもっとも驚いたのは、「手話」という言語のもつ驚くべき奥の深さであった。中でも「手話は四次元の言語」というストーキーの指摘には唸らされた。ストーキーによると、音声言語は時間という一次元の広がりしかなく、書記言語(いわゆる「書き言葉」)には二次元の、構造モデル(身振り・手振り)には三次元の広がりがある。だが、四次元の広がりをもつのは、唯一「手指言語」(≒手話)である。手話は、三次元の「空間」と一次元の「時間」を組み合わせることで、発話に匹敵する言語となっているのである(私はむしろ、手話のほうが発話言語を超える可能性さえあるのではないかと思う)。

また、ろうの手話使用者では、手話の使用に際して、本来聴覚機能をつかさどる左側頭葉が反応する、というのもびっくりした。これはどういうことかというと、手話は本来「視覚情報」であって、普通に考えれば、脳のなかの視覚情報処理を担当する部位が反応するはずである。だが手話使用者の場合、これが聴覚情報処理の担当部分におきかわっている。ということは、手話使用者にあっては、聴覚野であるはずの部位が視覚処理のために再配置されている、ということなのである。脳の中の「聞く」機能が、「見る」機能用にモードチェンジしているのだ。

ちなみに視覚情報は、通常は脳の右半球で処理される。手話利用者の場合、この機能が左半球に「転移」することで、手話を言語として使用することができるようになる。ただし、それには一定の「臨界期」がある。本書によれば、発話でも手話でも、何らかの言語コードを思春期までに導入することができれば、左半球優位への正常な転移が可能になるそうである。

本書はろう者を「障害」ではなく「差異」と捉え、固有の言語と文化を有する「共同体」であって「民族」であると捉えているらしい。これには大賛成である。ただ、本書では「ろう者」のみをこのような捉え方でみているようだが、これは「障害者」全般に言えることであるように思う。そもそも障害とは差異であり、それぞれの固有な文化をもっているものであるはずだ。本書では「ろう」に話題を限定しているため、そこまでの広がりと深まりが見られず、ここだけはちょっと残念だった。