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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1846冊目】ジョリス・カルル・ユイスマンス『さかしま』

 

さかしま (河出文庫)

さかしま (河出文庫)

 

 

もし仮に、十分な収入があって働く必要がなく、独り身で、好きなように過ごすことができるとしたら、あなたはどう暮らすだろうか。

本書の主人公デ・ゼッサントが選んだのは、2人の召使いとともに小さな家に移り住み、そこを徹底して自分の「好み」と「趣向」で覆い尽くすことだった。そして驚くべきことに、この小説で300ページにわたってひたすら語られているのは、その「好み」と「趣向」だけなのである。デ・ゼッサントが自分の家をどんなふうに飾り付け、どんな絵を飾り、どんな本を書棚に収めたか、というようなことだけで、この小説は成り立っているのだ。

デ・ゼッサントは「自然」を嫌った。徹底して自らの「精神」と「美学」に徹し、殉じた。その家は人工の極致、すなわち彼の脳そのものの延長であった。色彩をきめる際には、昼間の光ではなく、燈火の人工的な光に照らされてどう映るかのみを考えた。食堂は「二本マストの小帆船の三等船室」に見立てて周囲を水で囲い、浴場は平底船の船中のように設えられた。

「要はただ、いかに振舞い、いかにして精神を一点に集中するかにある。幻覚を生ぜしめ、現実そのものに現実の夢を代置し得るまでに、一事に没頭するには、いかにすればよいかにある。
 かくてデ・ゼッサントの眼には、人工こそ人間の天才の標識と思われたのであった」(p.36)

デ・ゼッサントがもっとも嫌ったのは俗物であり、俗世間であった。世間で健全とされる行為はまったく受け入れず、ただひたすら精神の作用のみで生きていた。デ・ゼッサントの人工楽園は、一見すると退廃的で、時として冒涜的にすら見えるものだった。だが、その裏側には厳格なカトリシズムが存在していた。そもそも悪は善があってはじめて存在するのであって、悪魔だって神があって初めて存在するのだ。サディズムをめぐり、ユイスマンスはこんなふうに書いている。

「このまことに奇妙な、まことに定義しにくいサディズムなる状態は、実際、無信仰者の魂においては起り得ない状態である。それは単に血なまぐさい暴力によって欲望を掻き立てて、肉の放蕩三昧にふけるだけでは成立し得ないのである。なぜかと言うに、そうした場合はただ生殖の感覚が錯乱するだけであって、それは一種の極端な老熟に達した淫乱症の症例にすぎないからだ。そうではなくて、サディズムは何よりもまず、涜聖の実行、道徳的叛逆、精神的放蕩、完全に観念的でキリスト教的な錯乱の裡にこそ存するのである。それはまた、恐怖によって鎮められた歓喜、両親が触れてはいけないと言って禁ずれば禁ずるほど、いよいよ禁じられたもので遊んでみたくなる、あのわがままな子供の邪悪な満足感に似た、一種の歓喜の裡に存するのである」(p.220-221)

ということは、デ・ゼッサントの、あるいはその背後にあるユイスマンスの一見冒涜的に見える精神世界は、実はカトリシズムの裏返しであり、ネガポジの関係になっているということになるだろうか。これはまた、サドの文学にもおそらくあてはまることであろう。つまり、単なる退廃趣味や残酷趣味や猟奇性だけの小説では、いつまでたってもユイスマンスやサドには届かないということなのである。

ところで、ユイスマンスは公務員だった。フランス内務省の役人で、勤務精励によりレジオン・ドヌール勲章を受けている。

ユイスマンス自身は決してデ・ゼッサントではなかったのだ。おそらくはデ・ゼッサントを夢想しつつ昼間は公務員として働き、夜は精神の美学に向かったのだ。専業の作家ではなかったからこそこういう異例の小説が書けたのか、あるいは書かずにいられなかったのか。同じ公務員としては、いささか気になるところではある。