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自治体職員の読書ノート

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【1843冊目】アーサー・シモンズ『象徴主義の文学運動』

情報・イメージ・ことば

 

完訳 象徴主義の文学運動 (平凡社ライブラリー (569))

完訳 象徴主義の文学運動 (平凡社ライブラリー (569))

 

 

象徴=symbolの語源は、ギリシア語のsymballein(一緒にする)に由来する名詞symbolonである。意味は「あるものを二つに割っておき、それぞれの所有者がそれを突き合わせることで身元を確認するもの」、つまり「割符」のことだ。そこから「可視的なものによって不可視のものを表現」(p.14)するようになったのだという。

そもそも「言葉」とは「象徴」である。言葉は、「指し示すもの」と「指し示されるもの」が割符のように一致するところに成り立つものであるからだ。ソシュールはそれを「シニフィエ」「シニフィアン」と呼んだ。したがって文学もまた、言葉によって書かれている以上、元来すべて「象徴文学」であるはずなのだ。

だが、本書にいう象徴文学の意味は、それよりすこし狭い。象徴文学とは、「可視的な世界がもはや実体ではなく、また不可視の世界がもはや夢の世界ではない」ような文学である。それはつまり、目に見えるものをそのままに描く自然主義文学から脱却し、目に見えない「魂」や「精神」を言葉で表す(象徴する)試みであり、その具体例がヴェルレーヌマラルメリラダンメーテルリンクらによる、可視的な世界からの飛翔であり、魂の解放の文学だった。

本書はバルザックやゾラら自然主義ロマン主義の作家にはじまり、マラルメユイスマンスメーテルリンク象徴主義の代表的な作家までを網羅した一冊である。フランスの作家が中心なのは、著者自身がフランスでヴェルレーヌマラルメと交友関係にあったこともあるのだろうが、実際にフランスこそが象徴主義文学の震源地であったためだろう(ちなみに名前からわかるように、著者自身はイギリス人)。かといって、本書は単なる仲間褒めの一冊ではない。むしろ、まるで後世になって書かれているかと思えるほど、作家に対する目は冷静で俯瞰的である。同時代の作家に対してこういう評価を下せる批評家が、今どれほどいるだろうか。

なお、本書でもっとも「面白かった」のは、エミール・ゾラに対するボロクソの批評ぶりだ。自然主義の旗手であるゾラは、確かに象徴主義の立場からすれば水と油、まるっきり相容れないものだったのだろうが、あまりに筆鋒がするどいので、かえってそこから象徴主義とは何なのか(あるいは、何ではないのか)というエッセンスの部分が浮き上がってくるのである。引用は控えめにしておいたので、ぜひ本書でそのボロクソぶりをお読みください。

さて、本書は象徴主義文学というひとつの文学史上の思潮を知るにも良いが、なんといってもそれぞれの作家に対する批評眼が参考になる。ロマン主義から象徴主義に至る一連の流れが、本書を読むだけではっきり見えてくるのである。そこで以下は、今後の私自身の読書計画のメモとして、特に印象的だった部分を書きぬいておきたい。

〈オノレ・ド・バルザック
バルザックが創造したように小説が近代の叙事詩になったのは、小説が細部を無限に取り込みえたからである。事実バルザック以前に偉大な小説は幾つも書かれていたが、偉大な小説家はひとりもいなかった。(p.24)

 

〈プロスペル・メリメ〉
メリメにとって、芸術は多く様式に関わるもの、ほとんど学問の一部なのである。それはこの上なく生き生きとした素材すら冷静に統御して、明晰な頭脳をもって熟考を重ねながらなされるべきものであった。(p.64)

 

ジェラール・ド・ネルヴァル
詩というものは一個の奇跡でなければならないことを、ジェラールは全世界に先駆けて見抜いていたということになる。詩は美への賛歌でもなく、美の描出でもなく、美を映す鏡でもなくて、美そのもの、想像力が描き出した花がページからふたたび咲き出してくるときの色、芳香、そして形であるべきだ。(p.99)

 

〈ギュスタヴ・フロベール
フロベールは登場人物の立場に身を置くが、それは、彼らに代わって考えるためではなくて、彼らに代わって見るためである。(p.116)

 

シャルル・ボードレール
ボードレールは、真実の全容をけっして語らなかった。彼は、罪の告白者として、彼自身のソネットに出てくる「邪悪な修道士」として、情熱の苦行者として、はたまた売春宿の世捨て人として、ひとり寂しくひっそりと生き、ひっそりと死んでいったのである。(p.120-121)

 

ゴンクール兄弟〉
新しい感覚を、物事の新しい幻視を表現するために、ゴンクール兄弟は新しい言語を創出したのであった。(p.136)

 

ヴィリエ・ド・リラダン
彼の主人公は精神的な矜持の化身であり、彼らの悲劇は物質に対峙したときに精神が受ける衝撃であり、物質による精神の侵害であり、精神的悪による精神の受ける誘惑である。(p.149)

 

〈レオン・クラデル〉
ディケンズもこういうことはできなかっただろう。ブレッド・ハートもできなかっただろう。キプリングもできなかっただろう。クラデルはそれを一回で、しかもこれほど完璧にできたのである。(p.160)

 

エミール・ゾラ
彼は凄まじい執拗さで観察するが、彼の観察は通行人の観察にしか過ぎない。(p.165)

 

ステファヌ・マラルメ
言葉は魂の自由な息づかいを表記したものとしてのみ価値を持つことを、彼は理解していた。言葉は、したがって、選択と調整の次元で相互に反響し調子を合わせるように配列する際に、極度の配慮をもって用いなければならない。しかも、それはけっして言葉そのもののためではなくて、暗示による以外は言葉がけっして表現できないもののためになされなければならない。(p.194)

 

ポール・ヴェルレーヌ
言葉というものは生き物で、私たちが創り出したものではないし、また生きる権利を私たちから要求することなく自立して進むものであることを、ヴェルレーヌは知っていた。言葉が疑り深く、言葉として悪意を持っていないわけではないこと、言葉が単に暴力に対して火や水が示すような宥めがたい抵抗力をもって理解しがたく抵抗するものであることを知っていた。言葉を掴まえようとすれば、狡猾さをもってするほかない。さもなければ言葉を信頼するほかない。(p.213)

 

〈ジョリス・カルル・ユイスマンス
真実は象徴によってしか到達し明かされることはなありえないことを、彼は理解するにいたった。ということになれば、あの描写、あの細部の積み重ね、あの情熱を込めた辛抱強い念入りな仕上げ―それらはみな目的に至る手段であり、私たちが性急に考えたくなるように、手段は本質的に目的ではないのである。(p.262-263)

 

アルチュール・ランボー
ランボーが求めるのは、いつの場合も、絶対的な存在である。この絶対的な存在とは、偉大な芸術家が、その知恵を慎重に働かして追求することを断念してきているものだ。だが、ランボーはこれ以下のものでは満足しないのだ。(p.279-280)

 

ジュール・ラフォルグ
ラフォルグは二七歳で死んだが、彼は生きているあいだもずっと死につつある人間だった。そして彼の作品は、忘れることのできない死というただひとつのことを思い出すことに怖じ気づく人たちの宿命的な逃避の姿勢を刻み込んでいる。(p.296)

 

モーリス・メーテルリンク
彼は恐れもせずに、この上なく神聖な秘密を口にして、私たちのもっとも近くにあるがほとんど近寄れない奥まったところにある、魂の幾つかの隠れ場所を暴いて見せる。彼が言うことはすべて、私たちも知っている。私たちはそれを知らないと言うかもしれないが、知っているのだ。それは、私たちがそれほど自分に余裕がなくて、また自分にそれほど誠実であることがないから、理解できないでいるものなのだ。私たちはそれほど勇気がないから、理解できないことなのだ。だが、メーテルランクがそれを言うときは、本当だということが私たちには分かるし、私たちにそれが分かっていることが、彼がそれを言う根拠になる。(p.311)