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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1842冊目】モーリス・メーテルリンク『青い鳥』

 

青い鳥 (新潮文庫 メ-3-1)

青い鳥 (新潮文庫 メ-3-1)

 

  

「子供向け」と「子供だまし」は似て非なるものである。

子供に対して本気で書かれたモノ、作られた作品は、童話でもマンガでも映画でも、大人向けのものよりはるかに「深い」ものであることが多い。少なくとも同じ内容であれば、たいていは子供向けのほうが深みをもっている。

それはたぶん、深い内容を子供に伝えるには、よほど言葉を選び抜かなければならないからだ。大人が相手ならそれなりの概念や複雑な言い回しが使えるが、子供にはそうはいかない。子供にも通じる平易な言い回し、シンプルな構文だけで、すべての文章を組み立てなければならない。

だが、だからこそ、そこで徹底した「言葉の精錬」が行われる。論理や構文に甘さがなくなり、結果として大人向けの文章よりも精度が高まる。「理」ではなく、魂の底まで届く言葉が並ぶ。アンデルセン宮澤賢治バージニア・リー・バートン、宮崎駿や先日亡くなった松谷みよ子あたりには、そういう独特の「やわらかい深さ」を感じる。

前置きが長くなったが、本書『青い鳥』も、同じ系列に属する一冊だ。いや、その手の「ホンモノの子供向け」の頂点に位置すると言ってもよいだろう。今回読みなおして(というか、前に読んだのはダイジェストの絵本だったので、初めてまともに読んで)その奥深さにあらためてびっくりした。

だいたい、ラストの「探していた幸せの青い鳥は自分の近くにいた」というオチが、実は尋常ではない。これって単なる「幸せは自分の身近にある」という自己啓発本みたいな結論にも見えるが、でも実は、その青い鳥はチルチルたちのちょっとしたすきに逃げてしまうのだ。

だが、ではチルチルとミチルは幸福を手に入れることはできなかったのだろうか。というより、そもそも二人は不幸であったのだろうか。

どうも私にはそうは思われない。確かに二人は貧しい家に生まれ、クリスマスには隣の家の豪華なクリスマスパーティを覗くしかなかったのだ。だが二人は隣を妬むわけでもなく、むしろ自分たちもお菓子をもらった気分になってはしゃいでいたのである。また、夢の中の旅で「幸福の花園」に行った時は、「お金持ちである幸福」や「かわかないのに飲む幸福」「ひもじくないのに食べる幸福」のような「ふとりかえった幸福たち」の誘惑に乗らなかった。

思うに、チルチルとミチルは最初から、本質的な意味で幸福だったのだ(だからこそ、最初から家に青い鳥がいたのである)。それは世間でいう幸福とはだいぶ違うものかもしれないが、それは、世間でいう幸福のほうが実はうそいつわりに過ぎないのだ。そもそも、読んだことがある方は思い出してほしいのだが、チルチルとミチルは自ら「幸福を探しに」夢の国に出かけたのではなかった。ベリリウンヌに頼まれてしょうことなしに青い鳥を探しに出かけたのである。

さて、チルチルは妖女ベリリウンヌに、ダイヤモンドがついた不思議な帽子を貸してもらう。そのダイヤモンドを回すと、とたんに世界の本当の姿が見えてくる。それはつまり、世界の本当の姿は目に見えないものであるということを、メーテルリンクが告示しているということなのである。

その「本当の世界」のすばらしい美しさと底深い恐ろしさのすべてを、いったん無数のシンボルに置き換えた上で、子供たちのための言葉、言葉の精髄だけをつかって美しく、幻想的に表現した逸品。大人になって読む「青い鳥」とは、そのような作品であった。