自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1835冊目】夏樹静子『裁判百年史ものがたり』

裁判百年史ものがたり (文春文庫)

裁判百年史ものがたり (文春文庫)

1891年の大津事件から2008年の犯罪被害者等基本法施行まで、日本の近現代を彩った12のトピックをノンフィクション・ノベルの手法で描いた一冊。

膨大な参考資料に基づいた正確さはそのままに、語り口はさすがのスリリングな展開で、読み手を掴んで話さない。冷静な筆致の中に事件をめぐる問題点を的確に浮かび上がらせていく手法は、さすがの一言。

取り上げられている事件は、いずれも日本の裁判史を画期したものばかり。冒頭の大津事件では、ロシア皇太子の襲撃事件にあたり「皇室に対する罪」の適用による厳罰を求めた政府を断固としてはねつけた大審院長の児島惟謙が、司法の独立を貫いた。次の大逆事件では、反対に政権の意を汲んだとしか思われない恣意的な裁判運営が行われ、「二十六人が重大な容疑で起訴されていながら、一人の証人も許さず、公判開始からわずか十九日で結審」するというスピード裁判で、なんと24人に死刑判決が下った(のちに12名が無期懲役に減刑)。

このコントラストが、本書全体を貫くトーンとなっている。つまり、一方では司法がその矜持と存在意義を示した事例(翼賛選挙無効、松川事件の「全員無罪」、尊属殺の違憲判決など)、もう一方では、検察側の「いいなり」で疑問の残る判決を下した事例(帝銀事件、八海事件など)が、バランス良く取り上げられているのである。

特に八海事件のことは本書で初めて知ったのだが、これはひどかった。複数犯という当初の「見立て」に固執して、単独犯として自白した被疑者からわざわざ共犯関係の証言を引き出し、拷問まがいのやり方で4人を「自白」させ、荒唐無稽としか思えないストーリーをそのまま「事実」として裁判に持ちこむ。こうしたプロセスには、予断に固執して手前勝手な「筋書き」を用意し、拷問による自白の強要でその筋書きに沿った供述を引き出す警察・検察と、その自白を鵜呑みにする裁判所という、日本の司法プロセスの最悪の病巣が浮き彫りになっている。そしてそのような「しきたり」が改善されたという話は、残念ながらいまだに聞かない。

こうした胸が悪くなるような事例だけではなく、胸がうち震えるような事例も紹介されている。特に私が感動したのは、ラストの「被害者の求刑」という章だ。

自らも弁護士である岡村勲氏が、妻が殺害されるという悲惨な事件をきっかけに被害者のおかれた立場の苛酷さを初めて知り、犯罪被害者救済のための立法を求めて運動を始める。そこで知ったのは、犯罪被害者をほとんど「放置」してきたこの国の現実だった。

だが、岡村氏やその仲間が犯罪被害者の現実を訴える中で、世論が、そして政治が動いたのだ。NHKは「犯罪被害者はなぜ救われないのか」という番組を放映し、2003年には40万近い署名と105自治体からの意見書を後押しとして、小泉総理との面会が実現。法務省自民党内に検討チームがつくられ、そして2004年「犯罪被害者等基本法」が国会に提出、可決したのである。

もちろんこの法律が「完璧」であるというわけではない。特に被害回復制度はこれからの課題である。しかし、それでも岡村氏の妻が亡くなった1997年の時点からすれば、わずか7年で、状況は劇的に改善したのだ。司法の制度を自分たちの力で変えるなんて、ふつうはなかなか思いもよらない。だが、やればできるのである。社会は「変わる」のを待っているものではなく、自らの手で「変える」ものなのだ。この犯罪被害者等基本法をめぐるエピソードは、そのことを教えてくれる。

良くも悪くも、裁判は大半の人にとっては縁遠い「他人事」である。しかし、それはいつ自分の身にふりかかってくるかわからないのだ。それは民事訴訟かもしれないし、犯罪の被害者になるというカタチもあれば、いわれのない罪で警察に捕まることもないとはいえない(痴漢冤罪のケースなどを考えるとよい)。そして、巻き込まれてから何かをしようとしても、たいていの場合はすでに手遅れなのである。

だからこそ、裁判をめぐる現状については知っておいた方がよい。その仕組みを知り、歴史を知り、問題点があったら改善を求めて声をあげるか、それが大変なら、せめてすでに何らかの訴えをしている人たちの声に耳を傾けるべきだ。無関心のツケはいずれ自分に返ってくるのだ。ちなみに裁判員制度も、その良し悪しには今は触れないが、そうした「当事者意識」を養うキッカケとしては良いのかもしれない。