読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1833冊目】平松義郎『江戸の罪と罰』

歴史・文化・民俗

江戸の罪と罰 (平凡社ライブラリー)

江戸の罪と罰 (平凡社ライブラリー)

著者の名前はこの本で初めて知った。名古屋大学日本法制史を教えていたが、1984年に58歳で亡くなったというから、学者としては「若死に」だろう。ちなみに「一村一品運動」で有名な平松守彦の弟とのことだ。

決してとっつきやすい本ではない。文章はかなり硬いし、江戸時代の文書がカタカナ混じりやレ点付きで挿入されたりする。だが、書かれている内容は、かなり興味深い。失礼な例えかもしれないが、老教授がぼそぼそしゃべる単調な講義なのだが、内容をよく聞いてみるとすごく面白い、というような印象なのだ。

いろいろなところに書かれた文章を著者の没後に集めたとのことで、記述が重なっている部分も多いが、メインになっているのは江戸時代の法制、とりわけ今でいう刑法だ。もっとも、当時は法と言えばほぼ「政治的支配者による命令禁止の規範」、つまり刑法であったのだが。

その「江戸時代の刑事法」は、その内容だけ見ればかなり苛酷かつ残虐なものだった。ところが、それがそのまま適用されたわけではなかった。法は法のまま、その運用を柔軟に緩和してバランスをとるという「技術」が発達したのである。このあたりは現代にも通じるものがあって興味深い。

例えば盗みを犯した者は、その額が「十両以上で死罪、それ未満は入墨・重敲」と決まっていた。そこで被害者は、被害額を「9両3分2朱」と申告することが多かったという。役人の側も虚偽申告であることは承知の上でそのまま判決を下した。「どうしてくりょう三分二朱」などという川柳まであったというから、よほど定着した「習慣」だったのだろう。

あるいは、家が火事になったとき、親が焼死するのを見捨てて子が逃げた場合は「死罪」と定められていた。しかし、これは「不可能に近い義務を子に科したもの」であり、現実的には無理難題に近い。そこでこうした事例の中には「親と一緒に逃げたが途中で行方を見失った」と申し立てることで、死罪を免れるという便法をきかせたという。もっとも、こうした「形式と実質の巧妙な使い分け」は、実際には幕府側にフリーハンドを与え、罪刑法定主義を空洞化させる危険もはらんでいるのだが。

共犯に関する規定も面白い。江戸時代の刑事法の大原則は「一人殺したら、一人死罪」であった。そのため、例えば指図を受けて人を殺した場合「指図した者は死罪、指図を受けて殺した者は遠島」と定められていた。あるいは大勢がよってたかって一人を打ち殺したというようなケースでは「最初に打ちかかった者が下手人」とされた。ちなみにここでいう下手人とは、「犯人」という意味ではなく、打首を意味する刑罰名であるからややこしい(同じ打首にも「死罪」と「下手人」があり、後者の方が引廻しがなかったり財産没収がない「最小限の死刑」であった)。

こうした規定はいささか不合理な感じもするが、著者によればこれは「最初にきっかけを作った者を厳罰に処する」という姿勢を示すことが一般予防主義につながる一方、一人殺せば一人が死刑になるという「勘定合わせ」によって被害者の復讐感情に報いるものであるとのことだ。ちなみに当時の刑罰は、故意かどうかを問わない結果責任主義だったそうだ。

また、ちょっと意外なところで興味深かったのは、石川島につくられた人足寄場のことだ。これは、今の中央区佃のあたりに設けられた、「無罪の無宿人」を送り込んで労働させるための施設である。ちなみに当時、無宿はそれ自体が許されない存在であり、実際にも生産人口の減少、治安の悪化等の社会問題となっていた。

まあ、今で言うホームレス対策のようなものかもしれないが、それがこの時代にあって、自立支援施設のような位置づけで設けられたということに驚かされる。しかしもっと驚いたのは、これを作ったのが長谷川平蔵、つまりあの「鬼平」であった、ということだ。

さて、こうした近世の法体系が明治以降は西洋法をモデルとした新たな法体系に移り変わっていくワケなのだが、著者はこの点について「法制史の学び方と文献案内」という文章の中でこう書いている。法制史の専門家の視点として非常に重要だと思われるので、引用しておく。

「よく実定法の教科書の最初には歴史が書いてあるが、その多くは明治まで遡ると、突如海を越えてヨーロッパに直結し、フランス革命ギリシャにいってしまう。法解釈の理論史、いわゆるDogmengeschichteなら、ある程度これはわかる。しかし法の適用、法の実務となったら話はまったく別である。江戸と明治はもちろん接続しており、日本の風土やひとびとはにわかに変わるものではない。学習された西洋法は、日本の諸条件に規定されつつ、具体化されるのであり、それ以外の途はありえない」(p.337)


意見としては大賛成である。ただし、これが「日本の諸条件に規定されつつ、具体化」するだけの時間的猶予がないまま、実際にはあわただしく近代日本の法整備が行われたのであって(戦後のGHQ主導の法整備はさらにあわただしかった)、そこが現代にまで至るさまざまな「ねじれ」や「ひずみ」を生みだしているのが現実であろう。

そこを勘違いすると、どなたかが書いておられたような「西洋法に合わせて日本人も西洋法の価値観を血肉にせよ」といったような議論になってしまう。考えてみると、著者の指摘する状況こそが、法制度だけではない、日本と言う国家、国民そのものがさまざまな局面で同時に背負い込んだ大問題なのである。