自治体職員の読書ノート

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【1823冊目】山本周五郎『赤ひげ診療譚』

赤ひげ診療譚 (新潮文庫)

赤ひげ診療譚 (新潮文庫)

言わずと知れたヤマシュウの名作。特に「赤ひげ」こと新出去定のキャラクターは、手塚治虫ブラック・ジャック』をはじめ、多くの「医療モノ」に登場する医師の原型となっている。だが一方で、一つ一つの話が読者の胸を打ち、心に刺さるという点で、本書を超える作品は、おそらくほとんど出ていないのではなかろうか(それこそ「B・J」を別にして)。

しかも、あらためて読みなおして感じ入ったのは、江戸時代という医療知識も技術も限られた時代を舞台に、それぞれに医療ミステリーめいた筋書きも織り込みつつ、その裏側にある貧困の悲惨さと人間の美醜をみっちりと描き出しているという、その小説としての充実ぶりだ。特に次のような去定のセリフには、山本周五郎自身の熱い思いがそのままほとばしっていて、忘れがたい。

「これまでかつて政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか、貧困だけに限ってもいい、江戸開府このかたでさえ幾千百となく法令が出た、しかしその中に、人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか」(p.56)

「「人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない」と去定は云った、「だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもない」(p.211)


後者については、これはどんな時代、どんな社会にもあてはまる普遍の真理といえるだろう。だが前者については、どうか。江戸時代と違って、現代は貧困や無知に対して政治が対策を講じている、と胸を張っていえるだろうか。

確かに制度は整った。生活保護制度など、江戸時代には望むべくもなかった。教育制度もはるかにきちんとしている。江戸時代と平成の世は、たしかに大違いだ。

だが本書で描かれている「貧困と無知」の事例は、果たして現代にはありえないだろうか。医療費が払えず痛みを痩せ我慢しているうちに病巣が大きくなり手遅れとなった患者、かつての罪滅ぼしに自分の財産を片端から人にやってしまい、そのため医療費もなくなってしまった男、貧窮のあまり子供が泥棒を働いたところをタチの悪い近所の女に見られてしまい、長屋にいたたまれなくなり一家心中を図った家族。今まさに、日本のどこかで起きていても驚かないコトばかりではないか。

むしろ、本書で描かれている貧しい人々の長屋の暮らしのほうが、現代では失われた「互助」の美徳を残しているというべきだろう(もちろん一方で、わずらわしさと不自由もまたあったわけだが)。江戸と現代で、われわれは何を得て、何を失ったのか。こういう小説を読むと、そんなことを考えさせられる。もちろん、その答は簡単には出ないのだが。

最後に、去定の言葉でもっとも印象に残ったフレーズを引用する。医療のみならず、福祉に携わる者こそ、肝に銘じるべき言葉だろう。それは一言で言えば「徒労に賭ける」というものだ。

「(前略)おれ自身、これまでやって来たこと思い返してみると、殆んど徒労に終っているものが多い」(略)「世の中は絶えず動いている、農、工、商、学問、すべてが休みなく、前へ前へと進んでいる、それについてゆけない者のことなど構ってはいられない、――だが、ついてゆけない者はいるのだし、かれらも人間なのだ、いま富み栄えている者よりも、貧困と無知のために苦しんでいる者たちのほうにこそ、おれは却って人間のもっともらしさを感じ、未来の希望が持てるように思えるのだ」(p.216)


だからそんな仕事、徒労のようにみえながら、それを持続し積み重ねることによって効果のあらわれる仕事もある、おれ(去定)は自分の一生を徒労にうちこんでもいいと信じている――と、このくだりは続く。このあたりは、すでに著者は江戸時代を離れ、完全に現代のことを言っているように思える。

本書が「オール読物」に連載されたのは1958年。まさに日本は高度成長前夜、進歩と成長が絶対的な価値とされてきた時代である。その頃にあってこんなメッセージを日本人に発することのできたというのは、考えてみればものすごいことではなかろうか。まだまだ福祉制度も整備途上であった当時の日本で、山本周五郎は舞台を江戸に移しつつ、成長から乗り遅れつつある「貧困と無知のために苦しんでいる者」にあたたかな光を当て、あまつさえそのために「一生を徒労にうちこんでもいい」と、去定に言わせたのである。

そして、そんなヤマシュウのメッセージが、今ほど辛辣に突き刺さる時代もない。いつの世であれ、日本人が忘れてはならない一冊だ。

ブラック・ジャック 1