自治体職員の読書ノート

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【1818冊目】是枝裕和『雲は答えなかった』

ズシンと重い一冊だ。官僚のみならず、組織に身を置く人なら、身につまされること必定である。

著者は『そして父になる』の映画監督、是枝裕和氏。20年以上前、29歳の駆け出しテレビディレクターだった是枝氏が、初めて自分ですべて作成した番組が、この本のもとになっている。

面白いのは、その番組ができるまでの経緯だ。当初、著者は「生活保護の現状と問題点」をテーマに取材を進めていた。頭にあったのは、「切り捨てられた社会的弱者とお役所という悪者」という単純な構図だったという。

ところが取材の終盤、山内豊徳という官僚の自殺が報じられる。その経歴には「厚生省社会局保護課長」という、生活保護行政の責任者のポスト名があった。気になって取材を進めるうちに、山内というこの高級官僚への興味が膨らみ、挙げ句の果てに番組は「しかし…福祉切り捨ての時代に」と題された、生活保護行政の問題点を取り上げる元々の内容と、山内という官僚の人物像を二つながら取り上げるというものになってしまった。

そこで著者が気づいたのは、「行政・官僚=悪」「市民=善良」という「安直な図式」の限界だった、という。本書の「あとがき」で、著者はこう書いている。

「このような「安直な図式」に社会をはめこむことで、逆に見えなくなるものがある。山内豊徳というひとりの官僚は、そのことを僕に気づかせてくれた。
 彼が『しかし』という一篇の詩にこめた意思と願いは、僕の中にあった官僚という概念をまったくくつがえしてしまったのである。こんな人間が高級官僚の中にも存在したのだという驚きと、だからこそ彼は死ななければならなかったのだ、という怒りに似た感情がこの番組をつくり終わったあとに残った」(p.283)


ここで出てくる『しかし』という詩は、なんと15歳のときに山内が書いたもの。その後も折に触れて読み返し、書き記していたというこの詩を読んで、なんだか私は粛然としてしまった。小説家志望であったという山内の文才の中に、とてつもなくナイーブで侵しがたい感性がきらめいている。ちょっと長い作品なので、一部だけ、引用させてください。

「しかし……と
 この言葉は
 絶えず私の胸の中でつぶやかれて
 今まで、私の心のたった一つの拠り所だった
 私の生命は、情熱は
 このことばがあったからこそ――
 私の自信はこのことばだった
 けれども
 この頃この言葉が聞こえない」

繰り返すが、15歳のときにこんなことを書いていたというのが驚きだ。官僚になってから、というのではないのである。

著者はこの「しかし」という言葉を「現実社会に対して異を唱える抗議の言葉であり、青年期特有の潔癖さを示す言葉であり、理想主義を象徴する言葉である」(p.259)と書く。だがそんな解説を読まずとも、役所や会社といった組織の中にあって、内外の矛盾や理不尽に抗おうともがいている「心ある」公務員や会社員にとっては、この「しかし……」という言葉ほど、心に沁み入るものはないに違いない。

その「しかし……」という反骨のつぶやきを、多くの人は次第に忘れていく。自分の中にその言葉が聞こえなくなっていることさえ気づかないまま、自分自身が次なる矛盾や理不尽の体現者となってしまう。そうならなければ、官庁のような、矛盾のカタマリのような組織の中で生きていくことはできない。山内は、わずか15歳でそのことを思い悩む早熟さをもっていたからこそ、皮肉にもそれを、官僚になってからも忘れることができなかったのだろう。

山内の一生は、すっかり聞こえなくなってしまった、内心の「しかし……」を追い求めるものであったのかもしれない。それが完全に聞こえなくなってしまう前に死を選んだのか、あるいは聞こえなくなってしまったことに絶望して自殺したのか。いずれにせよ、山内の死はわれわれに問いかけるのだ。君には「しかし……」という内心の声はまだ聞こえるかね、と。

山内の死は、良心と職責の板挟み、と言われる。水俣病訴訟を担当し、地裁の和解勧告を拒否して説明の矢面になった心労が原因ではないか、とも言われる。確かにそれもあるだろう。だが山内の死は、おそらくもっと個人的な、しかしだからこそ、もっと普遍的な人生の課題に関するものであったのではないか。私は本書を読んで、なんだかそんな気がしてならなかった。

その答えは、本書には書かれていない。だが、これは組織に属する者、とりわけ官僚、公務員と言われる人々(つまり「私」)すべてが考え直し、捉え直すべき問いであるように思われる。「しかし……」というつぶやきは、今も「あなた」には、そして「わたし」には、聞こえ続けているだろうか……?

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