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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1807冊目】蓮實重彦『監督小津安二郎』

監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫)

監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫)

映画本5冊目。

読む前は、正直なところ「映画評論なんて……」と思ってたけど、読み始めたらやめられない止まらない。蓮實視点の映画観にどっぷりハマり、映画を観る目が切り替わる。そこまで言うかと感じながらも、明晰なロジックと明快な文章に酔わされる。蓮實重彦の映画評論が難しいなんて、いったい誰が言ったのか。

自分では、小津安二郎は「好きな監督」の一人のつもりだった。だが読むうちに感じたのは、自分は単に「小津的なもの」を好み、自分が望む「小津っぽさ」を画面に投影していただけだったのかもしれない、という身も蓋もない結論だった。本書の開始早々、著者はこう語り、私のような「小津っぽさ」好きに鉄槌をくだす。

「誰もが小津を知っており、何の危険もともなわぬ遊戯として小津的な状況を生きうると確信しているのは、誰も小津安二郎の作品を見てなどいないからだ」

小津安二郎の映画のどの一篇をとってみても、それは小津的なものに決して似てはいないからである。にもかかわらず多くの者が小津の映画を小津的だと思うのは、瞳が画面を見ることを回避しているからにほかならない」


見ている(つもりな)のに、画面を見ていない? これはいったいどういうことなのか。そのひとつの回答として著者が提示するのは、小津の映画そのものが内包する、強烈な「反映画性」である。小津安二郎には、なんとなく保守的で伝統的というイメージがあるが、著者は、むしろ小津は「たえず映画の不可能性と向き合っている」現代的で革新的な映画監督であると断ずる。

では、具体的に小津のどういうところが「現代的で革新的」なのか。著者がここで注目するのが、登場人物の動作であり、小津の撮った風景であり、人物の構図であり、つまりは「テーマ」や「筋書き」以外の、小津映画の最深部を流れるもうひとつの領域だ。これを著者は「説話論的な構造」と呼び、そこに「映画読み」の焦点をあてていく。

例えば「食べること」と題した章では、複数の小津映画から、食事のシーンばかりを徹底的に取り上げる。登場人物たちは何を食べているか。誰と、どこで。食べ物は映っているか。その構図はどうか。

他にも「着替えること」「立ちどまること」のような動作、「見ること」「立ちどまること」のような仕草、「憤ること」「笑うこと」などの感情の動きなど、著者はひたすらに、ひとつの切り口で小津の複数の映画を両断にし、その断面に見えてくるものから小津映画の「裏の顔」をあぶりだす。

例えば「住むこと」では、1階と2階がそれぞれ登場するのに、小津の映画では階段が滅多にでてこないことに着目する。そして、『秋刀魚の味』のラスト、娘が結婚して家を出ていき、父が一人残された自宅のシーンで、今まで出てこなかった階段のアップが突然登場するインパクトを語る。

「娘を嫁がせることは、なるほど父親にとっては痛ましい体験ではあろう。だが笠智衆は、妻を失った後も微笑を絶やさなかったように、娘の結婚後も微笑しつづけるだろう。それは、ある期間だけ耐えていればやり過ごすことの可能な感傷にすぎない。だが、階段のフルショットは、そんな感傷を超えた決定的な衝撃によってフィルム的感性を揺さぶるのだ」


まあ、実際に『秋刀魚の味』を見て「階段のフルショットにフィルム的感性が揺さぶられるか」と言われると、う〜ん、どうかなあ……と首をひねりたくなるのが、シロウトとしては正直なところなのだが、批評的な見方というのは、やはり単なる鑑賞としての見方とは違ったものなのだろう。だが、こうした「パーツ」で映画を見ていくやり方自体は、筋書きやテーマ、あるいは演技のうまさや情景の美しさのレベルでしか映画を見られない私のような者にとっては、なかなかに新鮮である。

ただし、中には著者の勘ぐりすぎもあるようで、笑えたのは巻末の、小津映画のカメラを多く担当した厚田雄春氏へのインタビューだ。実は本文中で、著者は小津映画には滅多に雨が降らないことを指摘し、「不在の階段と不在の雨と不在の寒さを絶えず主題化していく」「ハリウッドの位置するカリフォルニアの光線を再現する」欲望をそこに読み込んでいる。ところが、厚田氏はあっさり、こう言うのだ。

「あの、チャチなことは嫌いなんですね(小津が)。それでああいう、松竹っていうところは大体ケチなところですからね、昔っから。ですから、その、雨でもゼニをかけなきゃいいものは出来やしないんだと、だからゼニがかからない、出さないものはやっても無駄だよ、っていう……」


まあ、映画批評って、実際にはこういうモノなのかもしれない。現場で実際に映画を作っている連中からすれば、あなた何言ってるの、全然違うよ、と言いたくなるような。だからこの手の批評は、作者ですら気づかない無意識的な欲望を「見出していく」ものとして、唯我独尊で行かざるを得ないのだ。

そこにどんな意味があるのか、と問いたくなるが、しかし本書を読めば、そのメリットはよくわかるだろう。映画批評は、それ自体の真偽ではなく、映画の「見方」「受け止め方」そのものの圧倒的な多様性の幅と深さを味わうものなのである。少なくとも私にとっては、ホントかよ、と思いながらも、小津映画の「観方」を相当に揺さぶられた一冊だった。

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