自治体職員の読書ノート

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【1804冊目】セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)

フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉 (文春文庫)

映画本2冊目。

う〜ん、これはとんでもない小説だった。ちょっと類例を思いつかない。

まずもって、上下巻計1000ページにも及ぶ長編なのに、事件らしい事件がほとんど起こらない。出てくるのはただひたすら、映画、映画、映画。それもいわゆる名画ではなく、B級、C級、あるいはZ級と呼ばれるような怪作・奇作や、さらにそのレベルを超えた異形の作品ばかりである。

ちなみに、メインになっているのは空想上の映画であり監督だが、脇には実在の映画や監督、俳優が、膨大なウンチクつきで登場する。中でもオーソン・ウェルズの「登場」にはびっくりした。

そんな「映画の虚実」の中心に登場するのが、謎の映画監督、マックス・キャッスル。本書の前半は、主人公のUCLA映画学科学生(その後大学教授になる)ジョニー・ゲイツが、このキャッスルを追い続けるプロセスを描いている。

どうにか入手できた状態最悪のフィルムは、B級感満載のホラー映画と見えて、映画に対しては誰よりもシビアな目をもつクレアに「妙に魅かれる箇所がある」と言わしめる。しかもその後見つかったキャッスルの作品は「ライプチヒの北、デッサウ郊外のカトリック系孤児院の廃墟」という、なんともいわくありげな場所で発見されたものなのだ。

この意味ありげな出自、徐々に明らかになるフィルムに仕組まれた巧妙な仕掛け、そしてその奥にうごめく謎の孤児院……。そしてアンチキリストというヨーロッパ裏面史がフィルムの向こう側にその姿をあらわし、物語はとんでもない方向に転がっていく。

後半になると、さらにここにキャッスルをグレードアップしたような若き異才サイモン・ダンクルが出現し、異端の徒カタリ派やら謎のドミニコ会士やらが入り乱れ、そして意外極まるクライマックスへとなだれ込んでいく。特にそのラストシーンは仰天モノで、思わず本書の表紙を見返してしまった(これは「こういう」小説だったのか!!)。

もちろんそこには、膨大な映画うんちく、歴史うんちく、哲学うんちくが詰まっている(誰かが映画版『薔薇の名前』だと評していたが、言い得て妙だ)。惜しむらくは、アンチキリストというテーマが、日本ではいささかピンと来づらいことだろうか。これはヨーロッパ史のいわば暗黒面、常に正史の裏側をなぞってきた影のサイドストーリーなのである。本書の斬新さは、これを映画の世界にリンクさせ、映画の光と闇を、宗教的感覚のフィルターを活用しつつ描き出したところにあるように思う。

ところで、ちょっと印象的なフレーズがあったので引用する。後に映画批評で身を立てることになるクレアがつぶやくこんなセリフだ。

「母に連れられて『天井桟敷の人々』を観たあの夜……わたしが映画なるものに深く心を魅かれるようになったときから、そこには映っている以上のもの、美しい輝きや魅惑よりもずっと底深いものがあると感じていたわ。一種のパワーというのかしら、スクリーンの背後から手をのばして観る者をわしづかみにするような魔力よ……私はあの『天井桟敷の人々』をつづけて七回も観た。ほんの子どもだったけど、まわりであらゆる文明世界が硝煙につつまれ崩れ去ろうとしているのは理解していた。そして、目の前にはまるで戦場に咲いた一輪の花みたいにひたすら純粋でかよわく、精緻な美の所産がある。それはそれで知的なエクスタシーだったけど、わたしはあのとき映画というパワーは裏をかえせばいくらでも悪用できるものだと知ったの」(上p.276)

まさしく本書は、映画をめぐる光と闇を鮮やかに描き出した一冊。映画好きならハマること請け合いだ。

薔薇の名前〈上〉