自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1800冊目】志村ふくみ・鶴見和子『いのちを纏う』

いのちを纏う―色・織・きものの思想

いのちを纏う―色・織・きものの思想

早いもので、もう1800冊目のキリ番だ。訪問してくださるみなさんに、感謝。虚空に石を放るつもりで書いていて、思いがけなくいただくコメントやブックマークが、何よりの励みになっている。ありがとう。

さて、記念すべき1800冊目は珠玉の一冊。よい本とはこういう本を言うのだなあ、と思える。

恥ずかしながら、というべきか、きものを着たことはほとんどない。せいぜい温泉に泊まった時に浴衣を着るくらいで、外出時はもちろん、家でも洋服だ。私の親も、家できものを着ているのを見たことがない。

外出して、電車に乗っても、お正月や成人式、卒業式などの時期でもなければ、きものを着ている人がいると目立つほどだ。いつから、日本人はこんなにきものを着なくなったのか。

ちなみに「サザエさん」の波平や「ドラえもん」ののび太のパパは家ではきものに着替えているが、「ちびまる子ちゃん」ではおばあちゃんが着ているくらいで、あとはみんな洋服だ。どうやらこのあたりに、衣服をめぐる「文化的断層」があるらしい。

縁がないとあたまから思い込んでいたが、本書を読むと、無性にきものが着たくなる。対談者のお二人によれば、西洋人と比べて小柄な日本人は、洋服を着ると余計に小さく見えるという。ところがきものを着れば、全然ひけをとることはない。きものを着ると、きものがしっかりその人を支えてくれるからだ。

それだけではない。きものは実は経済的である。確かに新しいものを買うと高いが、着る人にあわせて仕立てなおせば、親から子へ、孫へと、何世代も続けて着ることができる。きものとして着られなくなっても、布巾や雑巾にすればよいし、裂織りにすればよい。きものは日本古来からのリサイクルの実践であったのだ。

おもしろいのは、きものの形は自分の姿勢で決まる、ということ。洋服だと服のかたちが決まっていて、そこに自分を合わせるしかない。ところがきものは、着る人にあわせてくれる。言い換えれば、きものを着ると、そこにその人自身のかたちがあらわれてしまう、ということなのだ。

本書は南方熊楠などの研究者であり、歌人でもある鶴見和子と、紬織の人間国宝である志村ふくみの対談である。志村さんはきものの織り手であり、さらにお二人とも「きもの世代」であって、鶴見さんもきもののたいへんな愛好家であるから、きものから色、文化、日本をめぐる対談は、沁み入るように味わい深く、そしてドキッとするほど鋭い。

特にびっくりしたのは、色をめぐる対話。志村さんのきものはすべて植物染料だという。化学染料はつかわない。植物染料はどうやって取るかというと、これも私は恥ずかしながら全然しらなかったのだが、枝や幹、根から取るのだという。花ではない(花から取るものもあるらしいが)。

今「取る」とついつい書いてしまったが、志村さんはこれを「いただく」という。「植物からいただくんだ、どんな色が出るかわからないけども、いただくんだと思った時に初めて、植物が秘密を打ち明けてくれ始める」(p.134)と。この「植物が秘密を打ち明けてくれる」という表現は、『色彩論』を書いたゲーテの言葉でもある。

この「色」をめぐっては、おもしろいエピソードが紹介されている。志村さんが、著作を読んだ山奥の中学生たちに呼ばれて、みんなの前で色をつけたことがあった。志村さんはあらかじめ桜の枝を伐っておいてください、灰も作っておいてください、とお願いして、さてみんなの前で、桜を焚きだして糸に色をつけた。桜色が出ますよ、と言って。

ところがなんと、ついた色は黄色だったという。京都でやった時は桜色がついたのに、同じ桜の枝でも雪の中のこの村の桜だと黄色になったのだ。人間の傲慢な思い込みに自然からピシリとやられたのが、志村さんは「うれしかった」のだそうである。

この学校での交流の話はこのあとも続くのだが、鶴見さんがこの話から得た感想がすばらしい。「植物染料で染色するってことは、教育と同じ」と鶴見さんは喝破するのだ。

「それぞれの木の枝からその可能性を引き出すのが志村さんの染色であれば、一人一人の子どもからそれぞれの可能性をひき出し伸ばしてゆくのが教育でしょ。だから志村さんのお仕事は本ものの教育なのよ。志村さんは天然の教育者なのよ」(p.169)


たしかに、実際にやってみないとどんな色がつくか分からないところも、言われてみれば教育と似ている。桜の枝がもとだから桜色が出るとは限らないのである。大事なのはどんな色を出すかあらかじめ決めてかかるのではなく、出た色を尊重し、活かしていくことなのだ。鶴見さんがよく言われる「内発的発展」とはまさにこのことであろう。

そして、色の話がめっぽうおもしろく、奥深い。例えば「緑は生命、死、再生の色」であるという。これもゲーテだが、彼は緑を「闇に近い藍と光に近い黄色を混合した時に出る色」と言っているらしいのだ。だからたとえば、白い糸を藍甕に入れて引き出し、絞ると、引き出した瞬間だけ美しいエメラルドグリーンになる。ところが一瞬でその緑は消えて青になってしまうという。ではどうすれば緑になるかというと、白ではなく黄色の糸を藍甕につけるのだそうだ。そうすればきれいな緑に染まる。

色といえば、本書冒頭にはきものの写真が口絵としていくつか載っているのだが、これがもう、息を呑むような美しさ。「蘇芳無地」の鮮やかさもいいが、「霧」のじんわりとした色もすばらしい。なんとこれは「藍になりたがっている緑、緑になりたがっている藍」の重なりでこういう色になっているという。まさに「あわい」の感覚表現だ。

自然界からいただいた糸を、自然界からいただいた色で染めて織りあげるきものは、まさに自然そのもの、いのちそのもの。だから本書のタイトルは「いのちを纏う」なのだろう。そこには纏われるきものと纏う人間が、肌をへだててとなりあっている。いやはや、やっぱり「きもの」はあなどれない。

色彩論 (ちくま学芸文庫)