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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1792冊目】大江健三郎『個人的な体験』

人類・人間・人生

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

個人的な体験 (新潮文庫 お 9-10)

「障害者をめぐる20冊」14冊目。

主人公は「鳥(バード)」と呼ばれる27歳の青年。アルコールに溺れて大学院を中退、今は義父の紹介で予備校講師をやっている。アフリカに行きたいという漠然とした夢を抱えているが、その実は、ただ地図を眺めて現実逃避するばかり。つまりは、まるっきり大人になりきれていない「若者」だ。

そんな「鳥」も父親になる。ところが産まれてきた子どもは、脳が頭蓋から飛び出した状態だった。妻にその状態を隠したまま、子どもを転院させ、手術するよう病院側から勧められるが、「鳥」は子どもに障害があることを受け止めきれず、火見子という女性のもとに転がり込み、酒とセックスに逃避してしまう……。

ご存知かと思うが、大江健三郎自身、子どもが脳に障害を負っている。本書が書かれたタイミングも長男誕生後間もなくであるらしい。そのため「鳥」は著者自身がモデルと言われることが多く、私も読む前はそう思っていた。

ところが著者自身は、同じ境遇にある別人を描いたと説明している。とはいえ、それにしても、ここまで「障害児の父になる」プロセスを赤裸々に書けたのは、やはり著者自身の、まさしく「個人的な体験」があったからこそだろう。

そもそも「父になる」こと自体、男にとっては大きな障壁であることが多い。特に「鳥」のような子どもっぽい男にとって、父になるということは大人になるためのイニシエーションのようなものだ。

「いったん妻が出産し、おれが家族の檻に閉じこめられたなら(現に結婚以来、おれはその檻のなかにいるのだが、まだ檻の蓋はひらいているようだった。しかし生れてくる子供がその蓋をガチリとおろしてしまうわけだ)おれにはもうアフリカへひとりで旅に出ることなどまったく不可能になってしまう(後略)」


言っておくが、これは子どもが産まれる前、つまり障害があることが分かる前の、「鳥」の思いだ。女性から見れば、なんとガキっぽい考え方だろう、これだから男ってのは……と一蹴されるだろうが(そして、まさにご指摘のとおりなのであるが)、一方、大方の既婚男性なら、多かれ少なかれ思い当たるフシはあるのではないかと思う。

つまり開き直るワケじゃないが、男ってのはしょせんガキなのだ。その「ガキ」時代に訣別させるための、最終的な「引導」こそが、「父になる」という経験なのである(もっとも、子どもが生まれてもいつまでもガキっぽい「父親」も多いが)。その意味で、同年代の男どもと比べてもかなり精神年齢が幼そうなこの「鳥」も、父になるという体験を前に、あたふたと悪あがきをしているというワケだ。

よりによって、というべきか、そんな「鳥」のもとに障害をもった子どもが産まれる。彼はそのことを引き受け切れず、逃避に走るのだが、読んでいて、そんな態度を責める気にはちょっとなれなかった。無責任で情けないとは思うが。

ちなみにこの間紹介した『障害をもつ子を産むということ』には、読書ノートでは書かなかったが、わが子に障害があると知った父親が「この子を死なせてほしい」と医者に訴えたという事例がいくつか書かれていたが、本書を読んでそのことを思い出した。なにしろ「鳥」も、まったく同じようなことを口走っているのだ。

結局「鳥」は子どもへの手術を拒否し、しまいには看護するアテもないくせに子どもを病院から連れ出してしまうのだが、なんとびっくり、それまで逃避に逃避を重ね、アフリカ行きやら何やらに夢を見ていた「鳥」が、ラスト近く、突然、次のように変貌する。

「数秒後、突然に、かれの体の奥底で、なにかじつに堅固で巨大なものがむっくり起きあがった。鳥は今胃に流しこんだばかりのウイスキーをいささかの抵抗もなしに吐いた。菊比古が素早くカウンターをぬぐい、コップの水をさしだしてくれたが、鳥は茫然として宙を見つめているだけだった。おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか? と鳥は考え、そして不意に愕然としたのだった。答えは、ゼロだ」


この「突然の改心」こそ、実はこの小説の最大の「問題点」とされてきた。たとえば三島由紀夫はこのラストを「がっかりした」と述べ、「小説の末尾には、ニヒリストたることをあまりに性急に拒否しようとする大江氏が顔を出し、却つて人間の腐敗に対する恐怖があからさまにひろがつて、逆効果を呈してゐる」と語ったという。ここにきて大江健三郎はリアリズムを放棄し、安易なヒューマニズムに堕したとの批判もあるようだ。

確かに小説技法としては、主人公が急に今までと考え方を変えるには、何か目に見えるきっかけをその前に用意しておくのがふつうである。この「鳥」の心変りは、そういうものが何も見当たらないだけ、かえって唐突に思えてしまう。

だが実際には、心の中でなにかが「むくりと起きあがる」のは、何かきっかけがあるときばかりではない。むしろ目に見えないいろいろの積み重ねの末に、突然の内的な変化が起きるのだ。禅でも雲水が悟りをひらくのは、道で転んだとか子どもに棒でたたかれたとかの、ほんのちょっとしたきっかけからであることがほとんどではないか。

推測だが、大江氏も障害をもった子を授かり、そのことを受容するに至るプロセスで、なにか同じような経験をされたのではないか。大江氏が「鳥」のようなガキっぽいモラトリアム人間だったとは思わないが、しかし「父になる」ことを心に固めた転機は、やはり何もないところから忽然と湧き起こったのではないか。

そう考えると、このラストは大江健三郎の「ヒューマニズム」ではなく、むしろ自らの経験に立脚した、確信に近い「リアリズム」だったのではないかと思うのである。三島はおそらく、「鳥」のような人間は最後まで「障害児の父となる」ことを受け入れられず、火見子とアフリカに逃避行するべきだと思われたのだろう。

確かに、そのほうが小説的には人間の醜悪なリアリズムに迫るものとなるかもしれない(個人的には、障害児を見捨てて海外に逃亡しても、単に情けなさと卑劣さが際立つだけで、人間の本質をえぐるような小説にはならないと思うが)。だが、それは著者にとっては「リアル」ではなかったのだ。小説的な破綻をおそらくは承知の上で、こうした「転回」をさせてみせた点において、やはり本書は、半ば以上大江健三郎の「私小説」なのではないか。そんなふうに、私はこの小説を読んだ。

それにしても、気になるのは「鳥」の妻の存在感の薄さである。火見子のキャラクターの強烈さに比べると、入院中であることを差し引いても、「鳥」の中でその居場所がなさすぎる。こんなんで退院後大丈夫なんだろうかと、そっちのほうが心配になってしまった。「鳥」は、ようやっと父にはなれたものの、「夫」にはまだなれていないのかもしれない。