自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1789冊目】糸賀一雄『この子らを世の光に』

この子らを世の光に―近江学園二十年の願い

この子らを世の光に―近江学園二十年の願い

「凡ての人がこの事業の重大性を認めている。しかし果して誰人が自ら進んで、この事業に当ろうというのか。私にとっては、もはや、ただ前進あるのみという決定的な問題となってしまっている。自分の中にたぎり湧く情熱は、もはや如何なる冷却にあおうとも冷えることのできぬ状態に達しているのである。私は自分の将来の進路として官吏生活が如何にあきたらぬものであるかをも、もう問うまい、自己一身の進路として、あれこれの選択をなす対象として、この事業を考えることは冒涜ではないだろうか。可哀想な、忘れられ捨てられた子たちへのひたむきな愛情が(略)ひたむきにこの事業に注がれねばならなくなったという一事だけで十分である」


著者が近江学園の設立を前にして、意気込みを語った日記の一部である。本書にはこのように、著者の日記が時々挿入され、その時の状況や感情がリアルタイムで表現されている。

官吏生活」とあるのは、著者が滋賀県庁の職員だったからだ。著者は独立の民間事業家ではなく、「官」であった。「官」としての自らの立場を最大に活用し、近江学園の設立にこぎつけたともいえる。

それにしても、熱い文章である。この後では、困難に向かう自分を、迫害と戦った初期キリスト教徒にさえ例えている。もっとも、終戦後まもない、日本中が荒れ果て、食糧も物資もない時代に、戦災孤児知的障害児のための施設をつくろうというのだから、その気持ちもわからなくもない。

だが、ある意味では、そうした時代だからこそ、近江学園のような施設が必要とされたとも言える。ちなみに、後に知的障害児入所施設となる近江学園は、当初は戦災孤児や生活困窮児の部門と、知的障害児の部門に分けられていた。だが完全に分離されていたというわけでもなく、相互に関わり合いをもつ機会を設け、そのことによって、特に知的障害児と接することによる他の子どもたちへの感化を狙ったようである。

本書はこの近江学園の創立の歴史を辿りつつ、創始者である著者の半生を自ら綴った一冊だ。そこに書かれているのは、言語に絶する苦難の道のりであり、その中で繰り返された試行錯誤の数々である。なにぶん書かれた時代が今と違うので、知的障害に対する捉え方や用語の使い方にギャップを感じるが(なにしろ当時は「精神薄弱」「痴愚」「白痴」などと言われていた)、その「魂」の部分は、現代にも十分に通じるように思われる。

苦難ということでは、そのハードワークぶりが現れているのが「四六時中勤務」「耐乏の生活」「不断の研究」という「近江学園三条件」である。職員は仕事だけでなく生活そのものを近江学園で行い、なんと当初は給料まで全額プールして共同生活をやっていた。「素朴な原始共産制」と著者は回想しているが、職員だけでなく妻や子まで共同生活に巻き込んでいったのだから、現代ではちょっと考えられない、というかありえない話である。

だがその理念の裏側には、子どもたち、中でも知的障害児にとっては、生活そのものがすべて活動であり、学習であるという著者の認識があった。「いっしょに食事をしたり風呂にはいったりする、そういう生活を共にする教育というものが、この子たちにとってはどんなに大切か」と著者は書いている。学校の教室だけでやるような教育では、どうしても限界があるのである。著者の考える入所施設とは、単なる収容場所ではなく、もっと積極的な意味合いのあるものだったのだ。

近江学園やその他の施設で、著者らはいろいろな活動に取り組み、その中には社会に出ることを想定したものもあった。だが一方で、特に重度の心身障害児に対しても、「杉の子組」というグループをつくって対応した。もっとも、この重度障害児への対応は、いろいろなことを考えさせたようである。

「近江学園自体がこの世の中から特殊視されており、そのなかでさえも障害の種類や程度によって子どもたちが特殊として差別される。この子たちのためと称しながら、その根底には一般のいわゆる「健全な社会」を想定して、そこからはみ出したものとしての「特殊な社会」をつくってしまうのである。私たちの心の奥深いところに巣くっているこの差別的な思想、特殊観念というものは、その正体はいったいどういうものであろうか」


だがこの取り組みを通じて、著者たちの目も徐々にひらかれていく。少し後で、著者はこんなふうに書いている。

「努力は、この子どもたちの指導そのものに対してばかりではなく、自分自身の心の成長のためにも注がれたのである。そのことを通じてさらに子どもたちとの間により深い共感と交流がうまれてくる。白痴といわれ重度の痴愚と呼ばれたこの子たちにたいする学園の評価は、しだいに世間のそれとはちがっていった。少くとも学園の中では、この子たちはもはや「特殊」の存在ではなかった。同じ仲間であった。観念的・理念的な意味で、価値的に人間はすべて同じだというのではない。それよりももっと素朴に、具体的に、ありのままの生身で、この子たちも同じなのであった」


さらに著者は、この考えを敷衍し、社会にはびこる能力中心、生産中心の考え方に疑問を呈する。「生産に従事することができる」ことが価値とされ、障害児教育でさえ、「人的資源の可能性をもったもの」として、経済や生産の尺度の中で測られようとする。その観点からは、重度の心身障害児など、ほとんどまったく評価の対象にすらならない。

実際、そうした見方に基づいて、重度心身障害児施策は「後回し」にされ続けてきた。だが著者によれば昭和38年あたりから、そうした方向性に少し変化が見られるようになってきた。重度心身障害児対策が日本の政治や行政の中で打ちだされるようになってきたのだ。それは著者の表現を借りれば「いわゆる社会復帰などは期待できなくても、そこにその子たちがいるのだというただそれだけの理由で、重症の心身障害児という現実に、真正面からずばりと取り組む姿を示している」のだという。

国がホントにそこまで考えていたかどうかはわからないが、そうだとすれば、この価値観の転換は重要だ。なぜなら、すぐ後で著者自身が述べるように、このことは重度障害児だけの話ではないからだ。そもそもすべての子どもは、将来どの程度役に立つようになるかによってではなく、「その発達の段階を豊かに充実させられるかどうか」を見ていかなければならない。いや、大人も含め、すべての人が「社会に役に立つかどうか」ではなく、生きることそのものの中に、根本的な人間としての価値を見いだされなければならないのである。

「この考え方の質的な転換ということは、とりもなおさず、すべての、文字どおりすべての人間の生命が、それ自体のために、その発達を保障されるべきだという根本理念を現実のものとする出発点に立ったことなのである」


付け加えることはなにもない。福祉とはすべて、この言葉から始まるものでなければならない。ここでもまた、障害をもつ人々が、わたしたちにとっての「鏡」となっている。