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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1784冊目】渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』

福祉・教育・医療

「障害者をめぐる20冊」6冊目。

鹿野靖明(以下「鹿野」と、失礼ながら呼び捨てで書かせていただく。特に他意はないが、あえて言えばこの書き方が、鹿野氏のキャラクターを一番よく伝えられるように思うからだ)は「進行性筋ジストロフィー」だ。脚から始まって、徐々に全身の筋力が低下する難病だ。脚力が低下して車椅子生活に、心臓の筋力が落ちて心筋症に、呼吸筋の衰えで人工呼吸器使用に、そして首の筋力低下で寝たきりになる。動くのは両手の指が少しだけ。

病院や施設ではなく、親元を離れて在宅で生活している彼は(していた、というべきか。鹿野はすでに亡くなっているのだから)、24時間、誰かに付き添ってもらい、痰の吸引、体位交換、排泄物の処理などの介助を受けなければならない。それを担っていたのが、40人にのぼるボランティアだ。

在宅生活になる前、鹿野は入院していた。病院でも、彼は多くのボランティアに支えられていた。その一人である国吉は、深夜、鹿野の振る鈴の音に起こされた。「なに?」と聞くと「腹が減ったからバナナ食う」と言う。国吉は思う。「こんな真夜中にバナナかよ」

本書のタイトルの「由来」である。なんとナイスなタイトルだろう。しかも、これには続きがある。夜中に起こされて「バナナ」と言われた国吉は、さすがに憮然として、無言でバナナの皮をむき、口に押し込む。漂う緊張感。その中でようやく一本のバナナを食べ終わり、待ちかねてベッドにもぐりこむ国吉に、鹿野が言う。「国ちゃん、もう1本」……

本書は鹿野靖明の「24時間ボランティア」の生活に、2年半にわたり密着したノンフィクションだ。著者はフリーライターで、福祉に関してはまったくといっていいほど何も知らない状態で取材を始めることになったそうである。だが、それがかえって良かったのかもしれない。福祉やボランティアに関する生半可な「常識」や「知識」が著者にあったら、かえってここまで深く、真に迫った取材はできなかっただろう。既成の知識が邪魔をして、ありがちな「善意のボランティアと障害者」の物語に仕立て上げてしまったかもしれない。

そもそも先ほどのバナナの話だって、福祉ボランティアの「常識」を知っている人なら「それってワガママなんじゃないの?」と片づけかねない話である。夜中に起きてバナナを食べる必要がどこにあるのか。痰の吸引や体位交換ならともかく、「そんなこと」で仮眠中のボランティアを起こすなんて……と。

だが本書を読んでいくうちに芽生えてくるのは「ワガママで何が悪い」という思いだ。開き直りではない。自分ではほとんど何もできない、24時間の介助を必要とするような障害者にとって、生きることとはすなわち、介助者にものを頼むことなのだ。そこで主体性を発揮しようとすれば、どうしても「ワガママ」と取られかねないようなことを要求せざるをえない。それを「するな」とは、健常者の「よかれと思ったした行為」「安易な「やさしさ」や「思いやり」」(p.362)に従属し、自らの主体性も意思も抑えつけて生きろ、と言うことに等しい。

そもそもそれを言えば、24時間介助が必要な人間が、施設や病院で暮らすことを拒否し、かといって家族の介助を選ぶでもなく、ボランティアのやりくりをしながらでも在宅の生活を選ぶこと自体が、とんでもない「ワガママ」と思う人も(特に「福祉」関係者には)多いのではないか。「自立を試みる重度障害者たちは、そもそも健常者にとって本質的に「ワガママ」な存在であるという言い方もできる」と著者は言う(同頁)。このあたりは本書の「コア」のひとつだと思うので、くどいかもしれないがもう少し引用する。

「鹿野には「お世話をかけて」「申し訳ない」という態度があまり感じられないということは前に書いたが、対介助者との関係において、まさにそうした態度(それが当然の権利なのだという態度)を獲得してゆくことが、鹿野にとっての自立への挑戦であり、日々の闘いでもある。その背後には、つねに介助者に対して「ワガママ」がいえず、自分の気持ちや感情を抑え込んだまま、遠慮しながら生きざるをえない施設や病院にいる障害者たちの姿がある」(p.362-4)


だが、それは「障害者」の側の論理である。一方のボランティアには、また別の論理があり、感情があるだろう。なにしろ彼ら、彼女らのほとんどは、プロの介護士でもなんでもない、まさに「ボランティア」なのである。

鹿野はボランティアに対して「やさしい」障害者ではなかった。失敗すると怒り、気に障ることを言うと「出ていけ」「やめろ」と叫ぶ。生きること、欲求を満たすことに誰より貪欲で、そこにいっさいの遠慮というものがない。

そんな鹿野を、なぜ大勢のボランティアが支えてこられたのか。本書のもうひとつの眼目は、まさにそこにある。そこには、ボランティアというものの摩訶不思議な本質がきらめいていた。善意や「やさしさ」などでは到底語れない、もっと生々しく、ドロドロした部分を、著者は本書を通じてみごとに描き上げたのだ。

あるボランティアは、不器用に加え強い劣等感と「役に立ちたい」という思いで空回りし、かえって鹿野を居心地悪くさせた。別のボランティアは、鹿野と「フツウに接しよう」と思いつつかえってぎこちなくなってしまっていたが、「タバコ買ってきて」と言われた時に「嫌だ」と譲らなかったことで、ふっと壁を越えていた。「秘書」と呼ばれ頼られていた女性ボランティアは、ボランティアを始めてすぐ失恋がきっかけでうつ病になったが、鹿野のところに来ると「優しい気持ち」になるという。

私は、ボランティアをやっていて「自分が助けられる」「自分が救われる」なんてとんでもない……と、以前は思っていたのだが、本書を読むうちに考えが変わった。どうもボランティアというのは、そもそも「そういうもの」であるらしいのだ。むしろそういうものがない、上から目線の「慈善」「善意」で行われるボランティアの方が、はるかに表面的で、うさんくさい。上に挙げた一人目のボランティアは、「もっとキチンとシカノさんを好きにならなきゃいけない」という思いが「中途半端な自分を変えたい」という内面的な問題と裏表になっていることに気付いたという。

「でも当然のことですが、障害者が聖者みたいな存在であったり、健常者の望むとおりの存在である必要はまったくないわけですからね。
 ぼくがダメな部分を持っているのと同じくらいに、シカノさんだってダメだったり、ズルかったり、怠惰であったり、それからエッチであったり(笑)と、いろいろあるのも当然なんです。だから、それに気づいたとき初めて見えてくること、そして開けてくる関係があると思うんですよ。要は、もっと遠慮なく、率直に語り合ったり、ぶつかり合えばいいんですけどね。障害者と健常者が」(p.152)


本書を読んでいて強く感じたのは、人が生きるとは人に支えられることであるという、書いてみればごく当たり前のことだった。それはまた、支えられている人もまた相手を支えている、ということでもある。それがまさに「自立生活」ということの本当の意味なのである(前に読んだ『障害学』で紹介されていた、アメリカの自立運動の理念を思い出した)。そして本来、「制度」とはこうした「人と人との支え合い」をこそ、デザインしたものでなければならないはずなのだが……

障害学―理論形成と射程