自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1772冊目】橋本治『巡礼』

巡礼 (新潮文庫)

巡礼 (新潮文庫)

おそらく前代未聞の、「ゴミ屋敷の主」を主人公(というべきか)にした小説。

ゴミ屋敷については、以前、その名も『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々』という本を取り上げたことがある。著者の岸さんは保健師であり、この手のテーマのご専門であったわけだが、本書の著者、橋本治氏は本職が著述業であり、公衆衛生や地域看護関係とは全然畑違いだ。

にもかかわらず本書を読み、あらためて『ルポゴミ屋敷…』の読書ノートを読み返してみると、「ゴミ屋敷の主」のメンタリティや行動特性に対する認識がほぼ重なっていることに驚く。ちなみに念のため言っておくと、書かれたのは本書が2009年、『ルポゴミ屋敷…』は2012年で、こちらの方が早い。

岸さんの本では「セルフ・ネグレクト」が理解のキーワードであった。一方で本書がスゴイのは、全3章のうち中核部分となる第2章のほとんどを、ゴミ屋敷の主である下山忠市の半生に充て、しかもそこに日本の戦後史をぴたりと重ね合わせている点だ。いわば下山がなぜ「セルフ・ネグレクト」に至ったかを、その人生を綴ることによって明らかにしているのだ。

焼跡のバラックに始まり、戦後復興、そして高度成長と時代が変貌する中で、下山は時代に乗れたとは言えないものの、どうにかこうにか日々を送る。その人生は、まあ控え目に言ってもあまりぱっとしない、平凡といえばきわめて平凡なもの。強いて言えば妻と子を比較的早くに失い、うつろな心を抱えて生きてきた期間が長い、といったことがあるだろうか。だがそれだけで、人は「ゴミ屋敷の主」になってしまうものなのか。

とはいえ、本書でじっくりじわじわと描かれる下山の半生には、異様なほどの説得力が感じられる。生きる張りを失い、目標を失い、家族を失った下山が、どのようにして岸さん言うところの「セルフ・ネグレクト」状態になったのかが、疑似体験レベルのリアリティをもって感じられるのだ。

第2章のはじめのほうで見られるこんな心理描写が、いかにもリアリティがあって、読んでいて「ぞわり」とした。

「人は悲しいと泣くという。しかし、深く埋められた悲しみは、それが悲しみであることさえも忘れさせてしまう。人の感情をぶれさせる悲しみが悲しみとして機能しなくなった時、人の表情は動かなくなる。かろうじて持ち堪える自分自身に介入してそして発動されるのは、驚きと、そして怒り。驚き、怯え、怒って揺り動かされたものは、見えなくなった悲しみを増幅させる。しかし、それがいかに増幅されても、見えないものは見えない」(p.98-99)

「自分のしていることが無意味でもあるのかもしれないということを、どこかで忠市は理解している。しかし、その理解を認めてしまったら、一切が瓦解してしまう。遠い以前から、自分の存在は無意味になっていて、無意味になっている自分が必死になって足掻いている―その足掻きを、誰からも助けてもらえない。絶望とはただ、誰ともつながらず、誰からも助けられず、ただ独りで無意味の中に足掻く、その苦しさ」(p.99)


これこそまさに、セルフ・ネグレクトの「裏側」にある心理状態そのものであろう。なぜ橋本治は、こんなリアルな洞察ができるのか。

本書は小説としては、いささか理屈っぽく、説明が多い。上の引用からも分かるように、会話で心理状態を察するというよりは、その心理状態そのものをダイレクトに説明してしまう。そこがいささか鼻につくが、しかし下山のような人物を描くには、それがギリギリの方法なのかもしれない。

スト2ページはさすがにちょっと衝撃だったが、しかし考えてみれば、実に納得のいくラストシーンであった。だが一方で、下山を支え、生かし続けていたものはなんだったのかと考えると、なんだか複雑な気分だ。ゴミ屋敷の主であり続けるというのも、どうやらなかなかエネルギーがいることであるらしい。

ルポ ゴミ屋敷に棲む人々 孤立死を呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態 (幻冬舎新書)