自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1749冊目】石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』

巴里の空の下オムレツのにおいは流れる (河出文庫)

巴里の空の下オムレツのにおいは流れる (河出文庫)

テーマ読書。今度は「おいしい10冊」1冊目。ちなみに、たいへんな名エッセイである。

戦後まもないパリ。著者が借りた粗末なアパートの貸し主、亡命ロシア人の未亡人が「夕食にしましょうか」と呼びに来る。台所に招かれ、調理台の横に座った著者の目の前で、マダムは驚くほどたくさんの「バタ」を熱々のフライパンに入れ、卵4個をほぐして塩コショーを入れ、かき混ぜたものをさっと入れる。「ずいぶんたくさんバタを入れるのね」「そうよ、だから戦争中はずいぶん困ったわ」……

だから戦争中はバタの代わりにハムのアブラ身を使った、なんていう挿話がそこにするりと入り、そこから一転して、オムレツのレシピがさらりと披露される。

「オムレツは強い火でつくらなくてはいけない。熱したバタにそそがれた卵は、強い火で底のほうからどんどん焼けてくる。それをフォークで手ばやく中央にむけて、前後左右にまぜ、やわらかい卵のヒダを作り、なま卵の色がなくなって全体がうすい黄色の半熟になったところで、片面をくるりとかえして、火を消し、余熱でもう一度ひっくりかえして反面を焼いて形をととのえたら出来上る」(p.9)

ここからしばらくは、オムレツがどんなに旨そうな料理か、というオムレツ賛歌。「オムレツはうちで出来たてをたべるべきだ」という「金言」が飛び出したかと思うと、フランスでのオムレツのバリエーション(チーズ・オムレツ)、アメリカでのオムレツ事情と続き、チーズ・オムレツとスパニッシュ・オムレツのレシピがさりげなく披露され、そこで話は「私」とマダムの会話にするりと戻り、話題はふいっと「ロシアふうの卵(エフ・ア・ラ・リュス)」へ。

そして話題はパリの卵料理の思い出に流れ、ヴェベールというレストランの「ヴェベールの卵」や、ド・リボン夫妻の家で味わった卵料理、さらに話題はふわりとフランス人のサラダの食べ方にうつって、簡単きわまりないが滅法旨そうなサラダのレシピがいくつも紹介され、そこで話は下宿先のマダム・カメンスキーへ戻り、今度はマダム特製のハンバーグステーキへ。ここでは意外なことにハンバーガーのレシピをご紹介。そしてラスト、食事が終わり、二人の食後の「片づけ」作法を描写して、ようやっとこの20ページほどのエッセイが終わる。

こんな調子で、ふんわりふわふわ、でもどこかぴしりと筋の通った、そしてとんでもなく食欲を刺激するエッセイが続く。戦後のフランスの食事情といっても、気取ったふうはまったくなく、著者の等身大の目線ですべてが描写されているので、読んでいてたいへん心地良い。

驚いたのは著者自身の料理や生活の失敗談が、実に自然に織り込まれていること。やたらに食い意地の張ったパリジャンの姿もユーモラスに描写され、肩肘の張ったところがまるでない。にもかかわらず、著者独特の「眼の高さ」というか、決して譲れない生活上のセンスのようなものもしっかり感じられ、単なるお気楽エッセイにも堕していない。

これが半端なフランスかぶれ、ヨーロッパかぶれの著者になると、「おフランス」のことをやたらめったら持ちあげて、比較対象の日本をやたらにけなすという、まあよくありがちな「○○なフランス人、××な日本人」式のくだらないエッセイになってしまうのだが、この著者はそんなアホとはまったく違う。なんといってもこの人、戦後まもないフランスにわたってシャンソン歌手としてデビュー、そこから世界を回って日本に戻ってきたという経歴の持ち主なのだ。

歌手? そのとおり、歌手である。料理の専門家ではない(ついでに言えば専業のエッセイストでもない)。しかし本書は、歌のことはほとんど出てこない代わりに、料理のこと、食事のことには滅法詳しく、しかもエッセイとしてどれも珠玉。そこらの専業「エッセイスト」を蹴散らすクオリティなのだ。ちなみにその変幻自在さに、私は向田邦子を思い出した。もっとも「和食」と「フランス料理」の違いはあるが。

そしてそのレシピの、さりげなく簡潔で、しかも旨そうなこと! 冒頭のオムレツのレシピで分かるとおり、読んでいるうちに作りたくてうずうずしてくる文章である。こういう文章、なかなか書けるものではない。ベタな言い方だが、歌の才能に文章の才能と、天は二物を与えたもうたのだなあ、と思わせられる一冊である。