自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1734冊目】六車由美『驚きの介護民俗学』

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

「驚きの」というタイトルとは関係なく、本書は驚くべき一冊である。

「介護」と「民俗学」がジョイントされたタイトル、民俗学を教える大学准教授から介護職員に転身したという著者の経歴も異色だが、何より「驚き」なのは内容だ。

本書のスゴさは、「ケア」と「民俗学」という、おそらくこれまで一度も交差したことのない二つの分野をぶつけ合うことで、同時にその両方を照らし出し、組み合わせの意外性の中に、その本質と問題点をえぐっているところにある。こんなアプローチの本が、果して今まであっただろうか。

まず民俗学にとっての「意外性」であるが、これはなんといっても、現代の「忘れられた日本人」が、実は老人ホームのような老人介護施設にたくさん存在していた、という「発見」に尽きるだろう。

言うまでもなく「忘れられた日本人」とは、民俗学者宮本常一の著作名であるが、そこでは日本中のさまざまな地域を訪ね、そこの古老から話を聞くといったアプローチが取られていた。ところが平成の古老はなんと要介護認定を受け、老人ホームやデイサービスで歌を歌ったり体操をしたりしているのである。

これだけ高齢者福祉が発達していれば、こんなことはちょっと考えればわかりそうなものであるが、しかし実際に老人ホームでこうした民俗学的な聞き取りが行われた例は、これまでどれくらいあったのだろうか。むしろ彼らは、その多くが認知症を患っていることもあり、ほとんどまともに「話をきいてもらえる」ことさえなかったのだ。これはまさに民俗学の「盲点」であったろう。

「老人ホームにこそ多様な人生を歩んできた人たちが集まっていると私は確信している。そして、彼らの生き方は、これまで民俗学で”想定”されてきたテーマをはるかに超えているのだ。ここで紹介した利用者たちの語りには、これまで民俗学では対象とされてこなかった人々が多く登場する。そうした「忘れられた日本人」はまだまだ老人ホームには潜在しているに違いない」(p.39)


一方で、著者は民俗学の視点から、介護現場における「ケア」の実情にも疑問を投げかける。なかでショッキングだったのは、「これまで介護の現場では、認知症の利用者の「心」や「気持ち」を察しようとはしていたが、語られる言葉を聞こうとはしてこなかったということなのだろうか」(p.110)という指摘だ。その背景には「言葉の背後」への着目を過度に強調し、非言語的コミュニケーションを含めた側面的コミュニケーションばかりが重要視されるという、介護現場のコミュニケーション技法の「ゆがみ」があるように思われる。ひらたくいえば、「言われていることをそのまま聴く」ことのむずかしさを、介護現場は舐めているというのである。

「言葉を聞くという技法は介護や福祉の世界で本当に定着しているのだろうか」(p.97)と著者は言う。それはつまり、語られている内容すらまともに聞けないで、その裏側の「非言語コミュニケーション」を汲み取れるのか、との問いかけであろう。「語られた言葉を言葉通りに理解すること、もしかしたら認知症の利用者たちもそう望んでいるのではないだろうか」(p.111)という著者の指摘は、あまりにも当たり前のことであるだけに、かえって重い。

さらに著者は認知症の方の「同じ問いの繰り返し」には、実は「同じ答えの繰り返し」が求められているのではないだろうか」(p.124)とも言う。これは認知症の親族をもっていた私としては、なかなかに身につまされる指摘であった。確かに認知症の方は、聞かれるほうがイヤになるほど同じことばかりを聞く。四六時中、ということもあるし、ある特定のシチュエーションになると同じ質問が出る、ということもある。しかし著者はここに、新たな意味を付与して見せるのだ。

ここで大事なのは「予定調和」である。いわば「お約束の答え」を相手が返すことが重要なのだ。本書に登場する喜代子さんは「で、あんた何町?」と、相手の住む場所を何度も聞くという。しかしそのやり取りは、必ず「それじゃあ今度うちに遊びにいらっしゃいよ」という誘いで終わるという。

著者はこの「答え」に着目し、その背景に、婦人会やボランティア活動などでリーダー役を果すことが多かった喜代子さんの経歴を見る。そして、こうしたやり取りこそが喜代子さんを長年支えてきた「生きる方法」であり、そうやってこれまで地域で生きてきたことの証であると考えるのだ。

これこそが「介護民俗学」の本領であろう。単にやり取りを機械的に繰り返すのではなく、かといって、同じことばかり聞く「ボケばあさん」だと思っていい加減にあしらうのでもなく、予定調和のやり取りの奥に、その人の生き方を見て取る。

それによって同じ問いかけがなくなるわけではないが、少なくとも、聞き手に理解が生まれる。そして、理解は余裕につながる。現場で大きな役割を果たすのは、この「余裕」である。

また、「介護」と「民俗学」の決定的な違いとして、著者は相手との関係性を挙げる。介護などの「ケア」の場面では、「介護する側」と「介護される側」の間に対称性が成り立っている。いわば介護者は「助ける側」、被介護者は「助けられる側」なのだ。

タテマエ上、介護保険制度における福祉サービス利用は「契約」であって、両当事者は対等である。しかし、事実上は「助ける−助けられる」という非対称的な関係が固定されてしまう。

これは民俗学の場合と正反対だと著者は言う。民俗学においては「話者が調査者に対して圧倒的に優位な立場にある」(p.155)。調査者はあくまで話者に「教えを受ける」のだ。こうしたアプローチを介護現場に持ち込むことは、とりわけ「介護される側」にとって、どういう意味をもつか。これは人間の尊厳や生きがいにもかかわる重要な指摘であり、ケアに携わるすべての方が一度は考えて置くべき問題だと思われる。

もちろん著者も書いているように、ハードな介護現場で年がら年中「聞き書き」ばかりやっているわけにはいかない。むしろ入浴や食事、排泄などの身体介護で忙殺されてしまうのが介護現場の実情であろう。しかし、そんな現場であるからこそ、たまにはケアの非対称性から逃れて、利用者から「教えを乞う」ことがあっても良いように思われる。それは相手を単なる「お世話の対象」ではなく、長い年月を生き抜いてきた「古老」として敬意をもって遇することでもあるからだ。

少し嫌味な言い方をすれば、「介護職員」としてベテランになりたい方は、かえって本書を読まない方が良いかもしれない。だが、ケアというものを根本から考えたい方、今の介護現場のあり方や利用者の「扱い方」に疑問をもっている方にとっては、本書は非常に示唆に富む一冊だと思われる。別に介護職員が全員、著者のように「聞き書き」をする必要はない。しかし、民俗学的なアプローチの中には、介護そのものへのヒントもまた、たくさん詰まっているのである。

民俗学が介護を照らし、介護が民俗学を照らす。そのことがなんとも意外で、面白い一冊。オススメ。

忘れられた日本人 (岩波文庫)